2011年 10月 18日
人間の行為を、すべて表現としてとらえてみたいと思う。 いや、それは、意図的、主体的な行為である必要はない。ちょっと疲れて、椅子にぽつねんと2時間座っているのでもいい。昨日からの歯痛で、時折やってくる痛みをこらえているのでもいい。生活苦から、辛そうな顔をして毎日暮らしているのも、あれもこれもすべて表現である。 だからどうした。 こう言われても答えようがない。そういうふうに捉えてみたらどうだろうかというだけのことである。 この見方を教えてくれたのは、古くからの年長の友人で、舞踏の踊り手であるHさんだ。彼は長い間に、いくつもの新しい視点を僕に教えてくれた。彼はいつだったか、もうずいぶん昔、「全部、その人の、表現なんだ」と言った。そのとき、なにか少し開ける感じがした。 なんの表現なんだ。 さあ、なんの表現なんだろう。 そもそのひとは、その行為によってなにかを表現しようとしているのだろうか。 でも、すべてを表現ととらえるということは、すべてが表現ということだ。 彼は2時間椅子に座って、何を表現しているのだろう。 歯痛で顔をゆがめている彼が表現しているのは痛みだけだろうか。 新しい視点は、こんなふうに思考をうながしてくる。 表現ととらえれば、そこに、それを見るひとの存在がうかびあがってくる。 あなたのことなんか誰も見ていない。だれもあなたに注意を払ってはいない。これは真実だ。 しかしまた、 だれかが、どこかで見ている。あなたのことを見ている人がいる。というのも真実だ。 じっさいに誰かが見ているかどうか、というのはこの場合さして重要ではない。大切なのは、自分がそう思えるかどうかだ。 誰かを、絶対者とおきかえるなら、それは表現から信仰に変わる。 表現であるなら、そこに演じるという要素もでてくる。 この歯痛は、私にとって切羽詰まった、ぎりぎりのものであって、演じるなんて、とてもそんな余裕は… これについては、かのドストエフスキーが1世紀も前に、こう書いている。 おあいにくさま、歯痛にだって快楽はあるさ、と僕は答える。まる一月、歯痛を病んだ経験から、ぼくはちゃんと知っているのだ。もちろんこの場合は、黙々と憎悪を噛みしめるわけにはいかず、うめき声をあげることになる。だが、こいつはすなおなうめき声ではなくて、悪意のこもったうめき声なのだ。そして、この悪意こそ曲者なのである。このうめき声には、苦しむ人間の快楽が表現されている。・・・(「地下室の手記」江川卓訳 新潮文庫より) いやはや。 そうだったのか。 ぼくはすこし、自由になった気がする。 ひとは苦しみのときでさえ、その表現に賭けることができる。
by kobo-tan
| 2011-10-18 14:50
| ものがたり
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