2013年 01月 12日
「漁船の絵」 アラン・シリトー 著 新潮文庫「長距離走者の孤独」所収 ともあれ佐藤亜紀の小説に対するアプローチはどうにもアカデミックすぎるので、ちょっと小説らしい小説を読 みたいなあと思っているうちになんとなく思い出したのがシリトーの「漁船の絵」だった。これは短編ですぐ読 めるので、うちにあった昔の古い文庫本を引っ張り出して来て読んだ。長年、郵便配達をしてきた男の回想 記。 ○ ○ 男は本好きで、ということは孤独が好きだったということかな、家にいるときはたいてい本を読んでいる。6年 間連れ添ってきたキャスィーという妻がいる。一、二度妊娠したことはあるが子供はいない。あるとき夫婦喧嘩 をして、夫の読んでいた本を妻が暖炉の中に投げ入れて燃やしてしまう。それから一月後、妻は「出てゆきま す、もう帰りません」という書置きを残して、ペンキ屋と駆け落ちしてしまう。一人になった男ははじめは淋しい 思いもするが一人の暮らしに落ち着きも感じ、なんとなく日々は過ぎてゆき10年が経ってしまう。 ある金曜日の晩にキャスィーが訪ねてくる。ここの場面がとてもいい。 「こんばんは、ハリー(男の名)」 「ねえ、ずいぶん久しぶりね」 「やあ、キャスィー」 「あれからどうしてる」 「まあね」 「どうして腰をおろさないんだい?キャスィー。じきに火をおこすよ」 「一人でちゃんとやってるわね」 こんな会話が、とぎれとぎれに、さまざまに視線を交錯させながら交わされる。二人はいまの暮らし向きのこと や昔の思い出なんかを穏やかそうに話し合う。ペンキ屋は鉛毒で死んだという。家の壁には結婚していた時 からずっとあった漁船の絵がかかっている。妻はその絵を見ていて男に、あの絵が欲しいわ、と言う。欲しか ったら持って行っていいと、男は丁寧に梱包して渡してやると、妻はじゃあまたねと言って帰っていく。 それから二、三日して男は質屋のショーウインドウの中に漁船の絵を見つける。最初信じられない気持だった が、キャスィーはひどく困っているに違いないと思ってその絵を買い取ってくる。それから次の週にまた妻がや ってきて、仕事を首になってすぐに次の仕事が見つかったなどという話をしながら、壁の漁船の絵を見るが少 しも驚かない。彼女は「あれ、いい絵ねぇ、とても好きだったわ」なんてことを言いながら帰ってゆく。 それから毎週木曜の晩に妻はやってきて、言葉少なだけど、二人でお茶を飲んで、くつろいだ時間を過ごすよ うになる。そして帰る時はいつも決まって小金を借りてゆくようになる。妻は時々壁の絵をながめては絵を褒 めた。しかし妻に渡すとまた質屋行きになると思い自分からあげようとは言わなかった。そんなふうにして6年 が過ぎていったある木曜に、妻がまたはっきりとあの絵が欲しいと切りだす。男は拒まず、また丁寧に紐で結 わえて妻に渡してやる。 そしてまた前と同じことになる。男は質屋で絵を見つけるが、今度は買い戻しに行かなかった。そうすればよ かった、と男は思う。その二、三日あとでキャスィーが事故に遭い、死んでしまったからだ。彼女は晩の6時に トラックにひかれて死んだ。漁船の絵を持っていたが、めちゃめちゃになって血で汚れていた。男はその晩漁 船の絵を火にくべて焼いた。 ○ ○ そこから3ページでこの小説は終わるんだけど、その最後の2行を読むといつも込み上げてくるものがあって涙が 滲んでしまう。生きてゆくことはけっきょく悔恨しか残さないのかと思うと、辛く切ない気持になる。ぼくらは、男 の述懐をとおしてキャスィーという女のことを考える。キャスィーは自分からは何も弁明しない。男の目に映っ た一人の女の像があるだけ。いろんなことは不可解のままだ。しかし、引き込まれて読んでいき、この二人を 身近に感じるようになって、二人の人生を小説の中ではあるが思いやるようになった時、なにか透明で深い真 実らしきものを受け取るような気がする。解釈や判断や処世訓やモラルはもうどこかへ行ってしまって、なに か言葉にならない重いものだけが残る。 男の感慨は、作者シリトーの感慨かもしれない。でも男は、この短い小説の中に確かに生きていて、男の目に 映るキャスィーもまたそうだ。文庫本で30ページちょっとのこの物語は紛れもない「小説」であるに違いない。
by kobo-tan
| 2013-01-12 20:56
| 本
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