つくりものがたり

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カテゴリ:本( 18 )


2015年 10月 29日

本にしてくれてありがとう





寺山修司からの手紙

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美しい本だ。



9/15に岩波から出ていたのを10/6にたまたまAmazonで見つけ、迷いなく購入して封を切らずにおいてあったのを今日開けてみた。
奇蹟のような本。
これは田中未知さんの功績。
たぶん舌なめずりするように、1日1通くらいずつ読むと思う。
情報としての読書じゃない。消費としての読書じゃないもの。
読み終えるのがもったいないもったいない。


思潮社から出ていた「われに五月を」という寺山の本の中に、「森での宿題」という早大時代の寺山の日記を並べたパートがあって、そこに頻繁に出てくる山田太一との手紙のやりとりに感銘を受けた。それは20代の頃だったけど、またそれを思い出し読みたくなって、20年以上たってからAmazonで買ってまた読んだりしていた。


まさか書簡集が出るとは思わなかった。
よくぞ本にしてくれた。
田中未知さんにお礼を言いたい。
岩波らしい実直素朴な編集がまたいい。
辞書みたいに(凡例)なんかがついてるのもいい。
二人の葉書の実物大のコピーなんかが入ってるのだ。
あーもったいないもったいない。
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by kobo-tan | 2015-10-29 16:48 | | Comments(0)
2013年 10月 15日

「通訳ダニエル・シュタイン」 上・下 リュドミラ・ウリツカヤ著





d0169209_20264673.jpg2年ほど前から読もうと思っていた本を読み終えた。
現代ロシアの作家、リュドミラ・ウリツカヤが06年に発表し、09年に慎重クレストブックスから翻訳が出た「通訳ダニエル・シュタイン」 上・下。


裏表紙の惹句にはこうある。
ユダヤ人であることを隠してゲシュタポでナチスの通訳を務め、ゲットーのユダヤ人を脱出させたダニエル・シュタインは、逃亡中に寄寓した女子修道院でカトリックの洗礼を受ける。神父となってイスラエルへ渡り、宗派を超えた宗教を目指して教会をつくったが、ユダヤ人からカトリック側からそしてイスラエルからの彼への風当たりは厳しかった……すべての人に惜しみない愛情を注ぎ、弱者のために駆け回り、命をかけて寛容と共存の理想のために闘った一生。

上・下巻合わせて700ページに及ぶ長い物語の中心には、そのダニエルシュタインの一生がある。要約すれば上のようになるのだが、これ以上の要約は不可能。なぜかというと、この本に登場する数多くの人物それぞれに、それぞれの物語があり、それがいつかどこかで絡み合ってくるのだ。


作者リュドミラ・ウリツカヤは「この本は小説ではない、コラージュだ」と言っている。
主人公ダニエル・シュタインには実在のモデルがいる。そして物語の主要な部分はほぼ実話に沿っている。
実在の「ダニエル」の名は、オスヴァルト・ルフェイセンといい、1993年に氏がモスクワ経由でベラルーシに行く途中、ウリツカヤが家に招いて一日を過ごしたことがあり、それは忘れられない一日になったらしい。彼女はその日から13年をかけてこの本を書きあげた。



d0169209_21512810.jpg「ダニエル」の一生を書くにあたり、彼女は膨大な資料を漁り、行く必要のある場所へ行って数多くの人に会い、イスラエルを歩き回った。

彼女はインタビューに答えてこう語っている。
「さまざまな内面的な事情にうながされてこの小説を書くことになりました。それは私の人生でもっともつらい仕事でした。私自身がこの小説を通して変身したと断言できます」




彼女がこの物語を書くにあたって採用した方法が「コラージュ」だった。

d0169209_21173123.jpg写真は、下巻の目次の一部。

こんなふうに、その時その場所での、多くの登場人物の手紙や日記や独白、さらに新聞記事や、掲示板の文句などの集積で、人物ごとの、家族ごとの多くの物語が綴られる。その中に、多くは事実をもとにしているけれども、作者のつくり出した人物、考え出したエピソードが描かれてゆく。そしてそれらの人物と彼らの物語が、どこかで、どの時代かに、ダニエルと、あるいはほかのだれかと交錯するのだ。

だから読む者それぞれに印象に残る人物が違ってくるだろうし、すくい上げる物語も無数にあるだろう。

テーマは、宗教でもあり、人種でもあり、人間の寛容さでもあり、暴力でもあり、罪でもあり、愛でもある。

うーん…
要約はこれ以上不可能だから、あとは以上書いてきたことに興味を感じて実際に読んでもらうしかない。
読んで味わってもらうしかない。
世界はこんなに多様だということがわかり、簡単に判断したり解釈したりできない重いものが残るだろう。




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僕はこの春に、これを読むための準備として、
「私家版・ユダヤ文化論」 / 内田樹 (文春新書)
「ユダヤ人」 / 上田和夫 (講談社現代新書)
「ホロコースト」 / 芝健介 (中公新書)
をそれぞれ読んだ。とくに「ホロコースト」は、ダニエルの第二次大戦中の回想に大いに現実味を感じさせてくれた。


第二次大戦中に殺されたユダヤ人は600万人と言われている。アウシュビッツに代表される絶滅収容所はよく知られているが、収容所で殺害されたのは400万、200万人はほかの手段、主にソ連侵攻後にナチス親衛隊の行動部隊によって現地で射殺されている。数百、数千ではない。万単位の人間をどうやったら射殺できるのか。現地住民にまず巨大な穴を掘らせ、集めたユダヤのひとたちをその縁に並ばせてそれはものすごいスピードでうむを言わせず遂行されたという。狂気の日常としか言いようがない。
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by kobo-tan | 2013-10-15 23:13 | | Comments(0)
2013年 01月 24日

'13 読書日記 2



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「夏服を着た女たち」アーウィン・ショー著、常盤新平・訳/講談社文庫




常盤新平さんが亡くなった。
といっても、常盤さんの本は翻訳本しか読んだことがなくて、その本「夏服を着た女たち」を、たまたま一昨日読み返していた。
日々暮らしているとこういう偶然がある。翻訳者が亡くなる前日に、なぜか思い立ってそのひとの訳した本を読む。どうしてだろう。
この本は短編集で、二十代の時に読んだきり中身はほとんど忘れている。一昨日は二つ読んだ。

その中の「原則の問題」という短い話が面白かった。
少し長くなるけれども、しばらくお付き合いを。こんな話だ。

主人公はフィッツシモンズという男。場所はニューヨーク。妻の友人のパーティーに向かうため妻と今タクシーに乗っている。
そのタクシーが、交差点で、つっ込んできたフォードに当てられて、だれにも怪我はなかったものの、車のフェンダーが潰れるなどの損傷を追ってしまう。
フォードの男が出てきてこういう。「どうして目の前に気をつけねえんだ?」先制パンチ。自分の非は認めず、まず相手を責める。
タクシーの運転手は、制帽によれよれの服を着た五十がらみの小柄な男、レオポルド・ターロフ。ロシア移民だ。
フォードの青年、ラスクはすぐかっとなる性質らしく、免許証を見せてくれと言ったターロフの顔面を拳でなぐってしまう。

タ 「お巡りさん!」
妻 「クロード(フィッツシモンズの名)、 こんなことに掛かり合いにならないで、このお二人の好きなように話を決めてもらいましょうよ。」
ラ 「すまなかった!」 「悪かった。あやまるよ。警察を呼ぶのだけはやめてくれ!」
タ 「あんたを留置してもらう」 「あんたは罪をひとつ犯した」 「だからその罰を受けるんだ」

会話だけ抜き出すとこんな感じだ。
成り行きを見守っているフィッツシモンズを、パーティーに遅れることだけ気にする妻がなじる言葉を交えながら事態は進む。

ラ 「何で騒ぎ立てるんだ?毎日あることだ。警察なんか用はないよ。俺はあんたに弁償しよう、レオポルド。そのフェンダーには5ドル払う。それでいい。
  それから、鼻血を出させたことで、もう5ドルだ。どうだい?みんなまるくおさまる。あんたは示談で10ドル手にはいる。この親切な人たちだって、
  パーティーに出るのにこれ以上遅れちゃあまずいよ」
  ・・・・・
妻 「クロード!」 「一晩中ここにがんばっているの?」

4人の会話がそれぞれの人間を際立たせて逐一素晴らしいのだが、このあと結局、警察で証人になって欲しいというターロフに賛同して、
場所が路上から警察へと移る。ニューヨークの警察だ。面倒事は引きも切らない。あんたたちの前に事件が二つもある、と言って警官もあまりやる気がない。
ラスクはどうも前科者らしく、警察にはいる前にぬかりなく仲間4人を電話で呼び出す。その中には小賢しげな弁護士(ピッジャー)と、
ロシア語を話すロシア系の男もいて、なかなか悪知恵ははたらくようだ。

フ 「アデールに電話をかけなさい」 「ぼくらを待たないで食事をはじめてもらうように言うんだ」
タ 「申し訳ありません」 「今晩のご予定をぶちこわしにしてしまって」
フ 「いや、なんでもないんだ」
・・・・・
ピ 「私はピッジャーといいます」 「オルトン・ピッジャーです」 「ラスクさんを代表します」
  「あなたにお願いして、ターロフさんにこの告訴をとりさげてもらうようにしていただきたいのです。関係者には迷惑な話ですからね。
  ごり押ししたところで、誰の得にもなりはしません」

ロシア系の男はターロフに告訴を取り下げるようにロシア語で説得を試みている。が、ターロフは依然として頑固だ。

ラ 「たのんでくれよ」 「だからって困るわけでもないだろう」
・・・・・
フ 「ターロフさん」 「ほんとうにまだ告訴したいのですか?」
タ 「ええ」
ラ 「10ドルだ。あんたに10ドル出すよ。それでたくさんだろう?」
タ 「お金が目的じゃない」
ラ 「何が目的なんだ?」
タ 「目的は、ラスクさん、原則です」
ラ 「(フィッツシモンズへ)あんたから話してくれ」

このあと、ピッジャーと巡査部長が、ラスクが非常に反省していること、告訴手続きが非常に面倒であることをターロフに訴え続ける・・・

タ 「実を言えば」 「こちらが挑発もしないのに、彼はわたしの頭を殴ったのです」 「ある個人が街路上でべつの個人を殴れば法律によって罰せられるはずです」
・・・・
ラ 「おれはかっとしやすいたちなんだ」 「なんなら、おれの頭をぶんなぐってもいいぜ」
タ 「そういうことじゃありません」

しかしいかんせん、多勢に無勢だ。ターロフはとうとうこれ以上我を張り続けることはできないと悟る。

・・・・ターロフは古服の中でしおれきって、疲れたように首を振り、肩をすくめると、巡査部長のデスクの前で遠い乾いた岩場のような原則をきっぱりと捨ててしまった。
「オーケイ」彼は言った。
「ほら」ラスクは魔法のような速さで10ドル紙幣を取りだした。
ターロフはそれを押しやった。「出てってくれ」眼をあげずにそう言った。


このあと、パーティ―会場の家まで3人は誰も口をきかず、フィッツシモンズは無言でターロフに料金を払う。

・・・・ターロフは頭をふった。「あなたはたいへん親切にしてくださいました」 「お金はいりません」

フ 「ほんとうに申し訳ない」 「僕は・・・・」
タ 「いいんですよ」 「よくわかります」

 「時間がないのです。原則なんて」 ターロフは笑って肩をすくめた。「いまは、みんな、忙しいんですよ」
 ギアを入れると、タクシーは、エンジンの音をうるさくひびかせながら、のろのろ走って行った。
 「クロード!」ヘレンが呼んだ。
 「うるさい」フィッツシモンズは叫んで、ふりむくと、アデール・ローリーの家にはいって行った。


これが最後の一節だ。これ、原題は、"The Dry Rock" というらしい。 乾いた岩のような原則、というわけだ。
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by kobo-tan | 2013-01-24 22:36 | | Comments(0)
2013年 01月 19日

坂口安吾とトニー・ベネット



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少し前のことになるが、今年最初の朝日新聞日曜の読書欄で服飾デザイナーの山本耀司氏が坂口安吾の「風と光と二十の私と」を紹介していた。その小説は、坂口安吾が二十歳そこそこの時に小学校の代用教員をしていた経験をふりかえって書いた掌編で、自伝的エッセイと紹介されることもある。山本氏は安吾が大好きらしく、この掌編もいま読んでも非常に価値のある優れた教育論であると書いている。たしかにそういうところもあるし、なんにも惑わされずある精神的な境地に達しようとしている安吾が、「子供」という鏡を得て素直に自己の思いを表出したなかなか素敵な一篇である。


安吾についてはこんな記憶がある。
高校生の頃熊本の古本屋でどこかの文学全集のなかの坂口安吾の巻を買って持っていた。ある天気のいい午後、それを下宿の二階の部屋で読んでいて、読み進むうちにだんだん気が遠くなってくる感じがして、読み終わり畳に仰向けに寝転がって、開け放した窓の向うの、四角く切り取られた青い空と雲をぼーっとながめていた記憶だ。その時に読んだ短編もおぼえている。青鬼の褌を洗う女という話だ。こちらは、若いお妾さんの一人語りで、登場人物もいろいろあり会話もあるのだけど、やはりこれも精神のある境地を語りたいという雰囲気が濃くて、いささか観念小説、小説風エッセイと読めないことはない。なぜ題名まで覚えているのかというと、最後の一行の言葉にちょっとしびれたのだった。「すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。」という言葉だ。読み終えて、午後の青い空と雲をながめていると、啄木の「空に吸われし十五の心」みたいになった。先のことはすべて茫洋として、何も知らない十八歳だった。


この記憶と繋がって、トニー・ベネットとビル・エバンスの共演したレコードの曲が出てくるのは、そのころそんなジャズのレコードをカセットに録音してよく聞いてたからだ。カーメン・マクレエとかそんな青年が聞きそうもないものを渋がって聞いていたいやらしい子供だった。でもその日、空をながめていた時に流していたのは確かにこの曲だった、という気がする。その時のやや放心状態にぴったり重なってくる。ま、そんなこと、他人にはどうでもいいことなんですけど。



My Foolish Heart/Tony Bennett & Bill Evans Album(1975)
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by kobo-tan | 2013-01-19 23:57 | | Comments(0)
2013年 01月 18日

'13 読書日記 1



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「おぼれる人生相談」松浦理英子 著/角川文庫




ひょんなことから手にとって読んでみたらついつい引き込まれ、もはや手放せなくなり読み飛ばすのも惜しくて、
ひとつひとつじっくりと大事に読んでいるところです。松浦理英子さんは寡作の純文学系作家で、小説はまだ読んだことはなくこれが初めて。
ひとことで言うと、大人、です。松浦さんが、というより松浦さんの姿勢が、です。いま半分ほど読んだところですが、
この人生相談はしずかな驚きです。じつにいろいろな悩みが寄せられていますが、どんな相談に対しても回答者たる
松浦さんの姿勢はいささかもぶれません。それは見事です。

そうきたか、と回答の切り口の鮮やかさとか料理の仕方に感心するというのではないのです。うまいこと言うなぁというところがたくさんあるというのでもありません。
むしろ著者はあえてそれを避けています。何言ってんだか、と思うようないわば浅い悩みから、これは辛いなあと思うような深い悩みまで、
その悩みが生じている状況を細かく丁寧にたどり、そうすることで相談者の思いをふわりと柔らかく受け止め、その悩みを適度な距離を保ちながら共有し、整理し、
そこで確かに言えることだけを優しく注意深く述べてゆく。「相談をだしにして自己を語る」ということにならないように、あくまでも相談者の側に寄り添って、
少しでもその悩みが軽くなるようにはげます。その姿勢がいささかもぶれないことに打たれるのです。

松浦さんの回答に対して、相談者の三分の一の方々からお礼の手紙が届いたというのも、もっともなことと頷けます。
これを著者は38歳のときに「月刊カドカワ」誌上で行っています。いや恐れ入りました。聡明なひとはいるものです。
自分などにはとてもこんな言葉は出てこない。しかも40歳前に! 多くの方にお勧めします。
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by kobo-tan | 2013-01-18 01:28 | | Comments(0)
2013年 01月 12日

年末年始読書日記 5


「漁船の絵」 アラン・シリトー 著 新潮文庫「長距離走者の孤独」所収

ともあれ佐藤亜紀の小説に対するアプローチはどうにもアカデミックすぎるので、ちょっと小説らしい小説を読
みたいなあと思っているうちになんとなく思い出したのがシリトーの「漁船の絵」だった。これは短編ですぐ読
めるので、うちにあった昔の古い文庫本を引っ張り出して来て読んだ。長年、郵便配達をしてきた男の回想
記。
              ○                     ○

男は本好きで、ということは孤独が好きだったということかな、家にいるときはたいてい本を読んでいる。6年
間連れ添ってきたキャスィーという妻がいる。一、二度妊娠したことはあるが子供はいない。あるとき夫婦喧嘩
をして、夫の読んでいた本を妻が暖炉の中に投げ入れて燃やしてしまう。それから一月後、妻は「出てゆきま
す、もう帰りません」という書置きを残して、ペンキ屋と駆け落ちしてしまう。一人になった男ははじめは淋しい
思いもするが一人の暮らしに落ち着きも感じ、なんとなく日々は過ぎてゆき10年が経ってしまう。

ある金曜日の晩にキャスィーが訪ねてくる。ここの場面がとてもいい。
「こんばんは、ハリー(男の名)」
「ねえ、ずいぶん久しぶりね」
「やあ、キャスィー」
「あれからどうしてる」
「まあね」
「どうして腰をおろさないんだい?キャスィー。じきに火をおこすよ」
「一人でちゃんとやってるわね」
こんな会話が、とぎれとぎれに、さまざまに視線を交錯させながら交わされる。二人はいまの暮らし向きのこと
や昔の思い出なんかを穏やかそうに話し合う。ペンキ屋は鉛毒で死んだという。家の壁には結婚していた時
からずっとあった漁船の絵がかかっている。妻はその絵を見ていて男に、あの絵が欲しいわ、と言う。欲しか
ったら持って行っていいと、男は丁寧に梱包して渡してやると、妻はじゃあまたねと言って帰っていく。

それから二、三日して男は質屋のショーウインドウの中に漁船の絵を見つける。最初信じられない気持だった
が、キャスィーはひどく困っているに違いないと思ってその絵を買い取ってくる。それから次の週にまた妻がや
ってきて、仕事を首になってすぐに次の仕事が見つかったなどという話をしながら、壁の漁船の絵を見るが少
しも驚かない。彼女は「あれ、いい絵ねぇ、とても好きだったわ」なんてことを言いながら帰ってゆく。

それから毎週木曜の晩に妻はやってきて、言葉少なだけど、二人でお茶を飲んで、くつろいだ時間を過ごすよ
うになる。そして帰る時はいつも決まって小金を借りてゆくようになる。妻は時々壁の絵をながめては絵を褒
めた。しかし妻に渡すとまた質屋行きになると思い自分からあげようとは言わなかった。そんなふうにして6年
が過ぎていったある木曜に、妻がまたはっきりとあの絵が欲しいと切りだす。男は拒まず、また丁寧に紐で結
わえて妻に渡してやる。

そしてまた前と同じことになる。男は質屋で絵を見つけるが、今度は買い戻しに行かなかった。そうすればよ
かった、と男は思う。その二、三日あとでキャスィーが事故に遭い、死んでしまったからだ。彼女は晩の6時に
トラックにひかれて死んだ。漁船の絵を持っていたが、めちゃめちゃになって血で汚れていた。男はその晩漁
船の絵を火にくべて焼いた。

               ○                          ○

そこから3ページでこの小説は終わるんだけど、その最後の2行を読むといつも込み上げてくるものがあって涙が
滲んでしまう。生きてゆくことはけっきょく悔恨しか残さないのかと思うと、辛く切ない気持になる。ぼくらは、男
の述懐をとおしてキャスィーという女のことを考える。キャスィーは自分からは何も弁明しない。男の目に映っ
た一人の女の像があるだけ。いろんなことは不可解のままだ。しかし、引き込まれて読んでいき、この二人を
身近に感じるようになって、二人の人生を小説の中ではあるが思いやるようになった時、なにか透明で深い真
実らしきものを受け取るような気がする。解釈や判断や処世訓やモラルはもうどこかへ行ってしまって、なに
か言葉にならない重いものだけが残る。

男の感慨は、作者シリトーの感慨かもしれない。でも男は、この短い小説の中に確かに生きていて、男の目に
映るキャスィーもまたそうだ。文庫本で30ページちょっとのこの物語は紛れもない「小説」であるに違いない。
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by kobo-tan | 2013-01-12 20:56 | | Comments(0)
2013年 01月 12日

年末年始読書日記 4


小説ってなんだろうなんて言ってみたところで、べつに古今の名作、古典の類をまんべんなく読んできたなん
てことはまったくないんだけど、それでもそういうことを考えるのは楽しい。こころを動かされる本があり、そうで
ない本がある。面白い本があれば、まったくつまらない本がある。半分くらい読んでどうしようもなく腹立たしく
なってそのまま屑かごに捨ててしまった本もある。(これは一度だけ。この所業には小さな快感がある)

どこからその違いは生まれてくるのか。なにか秘密があるに違いない。どんなことにせよ、秘密を探ることは
おもしろい。それで昔から「芸談」の類が好きだった。今すぐに思い出せるのは、昔晶文社から出た「ヒッチコッ
ク/トリュフォー 映画術」
という本。フランソワ・トリュフォーがアルフレッ・ドヒッチコックに彼のほとんどの映画
について彼がどういうふうに考えてその映画をつくったか、撮影現場ではどんなことがあってそれに対して彼
がどのように対処したかを微にいり細を穿って聞きとってゆく。これは本当におもしろい。今でもぱっと思いだ
せるのは、雨のシーンで雨が思ったような映像にならなかったので、散水車から降らせる雨の中にミルクを混
ぜて撮ってみたらうまくいったとか、観客に次を予測させるような撮り方をしてはいけないとか。

ちょっと脱線するけど、観客に次を予測させる撮り方とはたとえばこういうことだ。主人公がボーっとソファーに
座っている。しばらくして何か思いたちパッと立ち上がって歩きだす。そこで坐っているカットをバストショットあ
るいはウエストショットでとらえた後、立ち上がる前に先回りして全身が写る引きの絵にしてはいけない。人間
は相手が動き出して初めて目を瞠るのであって、映像が行動の先回りをしたら観客に予測を与えてしまう。必
ず立ち上がる動作が一瞬でもはじまってからカットを変えるべきだ。
たぶん映画のおもしろいおもしろくないの分かれ目はこんなところにあるのだと思う。それは映画の秘密だろ
う。映画の中の物語を追う観客には思いもよらないところに、つくり手の経験から意識化された実に多くの方
法論があるのだ。



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「小説のストラテジー」佐藤亜紀 著/ちくま文庫




ほかの本を探しに工房の近くの本屋に行ったら案の定いつものごとく目当ての本はなく、その代わりこんな本
が目に留まって手に取った。「東京プリズン」を読み終わってすぐだったからだろう。本は頭の中にある疑問に
磁石のように吸いついてくる。この本は佐藤亜紀が早稲田大学第一文学部で行った講義をもとにして書いた
小説論で、ストラテジーは、長期的戦略の意。

佐藤亜紀という作家は以前なにげなしにamazonで本を検索していて見つけた。中身拝見のサービスがある
本は立ち読みできるから、amazonは都会のちょっとした大書店か図書館みたいだ。小説にはテーマや物語
よりもその文体に惹かれるものがあってこの作家のものもまずその文体に惹きつけられた。吉川英治文学賞
を受けた「ミノタウロス」という小説はこんなふうに始まる。


  
    ぼくは時々、地主に成り上がる瞬間に親父が感じた眩暈を想像してみる。親父がまだヴォズネセンスク
   にいて、農機具店で働いていた頃のことだ。ぼくが生まれるより二十年も前の話だ。
    独学で身に付けた簿記と、腰の低さと、お愛想笑いが生活の手段だった。三十を過ぎても独り身だっ 
   た。爪に火を灯すようにして僅かばかりの給金を貯め込む小男に嫁ごうという女はいない。日の当らない
   店の奥で青白く面窶れはしていても病気一つしなかったし、重い鉄床をちょっと踏ん張るだけで抱えあげ
   るくらい頑丈だったが、女たちは親父を宦官かなにかのように考えていたらしい。実際、頭の両脇を短く 
   刈り上げ、頭頂部に癖毛を一つまみ生やしたあの頃の親父の写真は、妙な具合に宦官じみていた。
                                                  (「ミノタウロス」冒頭の文)


こういう文体がどんな精神から生まれるのかを「小説のストラテジー」の文章は補足し解説してくれる。


    表現と享受の関係は、通常「コミュニケーション」と呼ばれるよりはるかにダイナミックなもの、闘争的な
   ものだと想定してください。あらゆる表現は鑑賞者に対する挑戦です。鑑賞者はその挑戦に応えなけれ
   ばならない。「伝える」「伝わる」というような生温かい関係は、ある程度以上の作品に対しては成立しま
   せん。見倒してやる、読み倒してやる、聴き倒してやるという気迫がなければ押し潰されてしまいかねな
   い作品が現に存在します。作品に振り落とされ、取り残され、訳も解らないまま立ち去らざるを得ない経
   験も、年を経た鑑賞者なら何度でも経験しているでしょう。否定的な見解を抱いてきた作品が、全く新しい
   姿を見せる瞬間があることも知っている筈です。そういう無数の敗北の上に、鑑賞者の最低限の技量は
   成り立つのです。                              
                                                 (第一章「快楽の装置」より)


ウーン、いいじゃないですか。こういう情熱的なひとは大好きだ。この本は6割くらい読んだところで中座中。
正直、ムツカシイ。わかるところももちろんあるけど、わからなければそれでけっこう、という姿勢で書かれてい
るので置いてきぼりを食わないように読み返しつつ進めなくてはならない。でもそういう姿勢は読者におもねっ
てなくて潔いので基本的に好き。
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by kobo-tan | 2013-01-12 17:05 | | Comments(0)
2013年 01月 11日

年末年始読書日記 3



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「東京プリズン」赤坂真理 著/河出書房新社




この本は、おそらく去年もっとも話題になった本のひとつで、毎日出版文化賞、新聞雑誌の書評担当者が選
ぶブックオブザイヤー2012、司馬遼太郎賞などなどを受賞した。帯のキャッチコピーは、16歳マリの「東京
裁判」、各紙誌で話題騒然、文学史的事件
、とものものしい。

去年の4月に朝日新聞の文芸時評で作家の松浦寿輝氏が「この気宇壮大な力作に、わたしは感動した」と書
かれていたのを読んだ時からぼくはこの本を読むのを楽しみにしてきた。著者がいったいどういうふうに<戦
争>や<戦後>や<天皇>や<東京裁判>と格闘してるのか、自分の目で読んでそれを味わいたかった。
それで、数ヶ月前に買ってあったこの441ページに及ぶ小説を満を持して年末、読みはじめたというわけなの
だが…

最後までは読んだ。読んだけれども、途中で何度ももうやめようかと思った。でも最後は面白くなるはずだと思
って、がんばって読み終えた。うーん、こころざしはわかるんだけども、空回り?先導役がひとりで興奮して騒
ぎまくるデモの後ろのほうで、その意図を諮りかねてだんだん歩調が鈍くなってゆく参加者みたいな感じ。最
後の演説にはさすがに引きこまれるところはあったものの、全体として、いったいこのデモは何だったのかと
訝ってしまうような感じ。とでも言おうか。

ぼくはこのひとの小説を読むのは初めてだったので、希望というか、頼みの綱はそのこころざし、だけだった。
ほかは何も知らない。どんな書き方をする人かもわからない。どうも娘は母親と精神的な確執があって、それ
を乗り越えようとしているようなのだけど、話のはじめからなぜ母親が中学を出たばかりの娘をアメリカの片田
舎に放り出すようなしかたで留学させるのかがわからないまま、娘がそこで経験したことを軸に、ヘラジカや森
や小さな小人や大君などといったイメージが幻視、幻聴のように現れてうわ言のようにその記述を繰り返し、
その時主人公は取り乱し、泣き、その錯乱のままに高ぶった調子で夢とも現ともつかない描写が延々と続く。
そのそれぞれのイメージ、それぞれの挿話がどうつながってなにをかたちづくってゆくのか、よくわからないな
りにもなにかを予感させたりしてくれたら興味の糸も切れないのだけど、どうにも筆致が興奮しすぎているから
読んでる方は逆にどんどん醒めてしまう。

こう言う小説を読んでいると、話の中身よりもむしろ、小説っていったい何?みたいなことばかり考えてしまう。
確かに最終章はディべ―トの場面で、ハイスクールを舞台に東京裁判の模擬裁判の行方が、ここはほとんど
夢うつつの描写なしでかなり読ませるのだけど、それにしたって、この章だけうまく取り出してディべート仕立
てもうまく取り込めばかなり読ませる近現代史エッセイ、になるんじゃないかなんて思ってしまう。ということは
無理に小説である必要はないってこと?じゃあ、小説っていったいなに。小説とエッセイの違いの根本はな
に?

こんなふうに、著者が書きたかった<戦争と戦後>のことよりも、この小説にけっきょく最後まで乗りきれなか
ったのはなぜだ?みたいなことばっかり気になってしまう。いけないのは自分の方か、それとも本の方か?小
説ってなんなのだろう。
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by kobo-tan | 2013-01-11 00:51 | | Comments(0)
2013年 01月 10日

年末年始読書日記 2




面倒くささにつけ込んでもうけようとするのが資本主義と前回の読書日記に書いたけど、そのへんのところは
「セックスレス亡国論」(鹿島茂 著/朝日新書)に詳しい。社会の全員が面倒回避グッズの買い手であると同時
につくりてでもあるダブルバインドという指摘は正鵠を射ていて、今の世の中の基本構造をくっきりと浮かび上
がらせている。それがセックスレスをつくり少子化を押しすすめる。対話形式で進む本なので読みやすくわか
りやすい。

いろんなことを考える土台としても、冷静にこういう認識を持ちたい。下ネタから見えてくるものって絶対ある。
性の歴史を追った第二章もなかなか。
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by kobo-tan | 2013-01-10 02:04 | | Comments(0)
2013年 01月 08日

年末年始新聞読書日記 1




迎春。
とはいってもこの寒さ。正月って毎年こんなに寒かったっけ?と訝るほど、日が高く登ってる数時間を除いてま
るで冷蔵庫の中に入ってるみたいな毎日。まさに春は名のみで、年賀状のお返事にたくさん迎春と書きなが
ら、願春とか祈春のほうが全然リアルだよななどとこころの中でブツブツ言っている。大仕事を抱えながら越し
た年ではないのでまあいつものようにのんびりと、家族で外出する以外は新聞を読み本など読んで過ごして
いた。

数日前に新聞を読んでいて呆れたのは、アメリカの元高官のインタビュー記事で、名前を忘れたのでネットで
検索して調べてみたらどうも元米財務長官のローレンス・サマーズという人らしい。何に呆れたのかというと、
これからの世界経済はこれまでと同じようにアメリカ中心で進んでいく、なぜなら新しい技術開発が着々と進
んでいて、近い将来、信号停止なども全部自分で判断する完全自動操縦の車に乗って、アメリカの西海岸か
ら東海岸まで旅することができるようになる、なんてことを誇らしげに何の疑念もさしはさむことなく(記事では
そううかがえた)記者に語るのだ、このひと。

アメリカンエスタブリッシュメントなんてこんなものなのだ。じゃあなにか?完全自動操縦の車には運転手はい
なくて、みんな乗客になるのか?無人タクシーってわけか。いのちを車に預ける?そっちのほうがへたに運転
して事故なんか起こされるよりよほど命を落とす確率は低いってえのか?で、その大ドライブの間、みんな景
色を見てるの?退屈するだろ。寝てていいってわけ?なら、バスや列車のほうがよくない?そんな車に乗りた
いと思うかな。運転したいでしょうに。こういう人たちはそういうこと考えないのかね。完全に欠如してしてるん
だな。一言でいえば、人間への洞察、が。

たとえそういう技術ができたとしても、テレビ電話がはやらなかったように、自動操縦車もはやらない。そっち
が安全だからみんなそっちに乗り換えるべしという法律でもつくるなら別だけど、そうでなければ、人間は自然
とそれは拒絶するでしょう。だってつまんないもの、そんな乗り物。いくら、面倒くささにつけこんでもうけようと
するのが資本主義でも、そうなったら楽しみも奪ってしまう。ただ、移動する、という目的(観念)の奴隷になっ
てしまいます。だからそんな技術開発にうつつをぬかしてないで、もっと根本的に必要なことにお金使った方
がいいってことに、こういう、お金と経済成長のことしか頭にない人は気付かない。呆れた。
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by kobo-tan | 2013-01-08 01:59 | | Comments(0)