つくりものがたり

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カテゴリ:ものがたり( 63 )


2015年 10月 29日

あなたの舞台はありますか?




未来食堂

元・エンジニアが営む“定食屋のスタートアップ”が、飲食業界の定説を覆す!?



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こういうことが大変なのは、その時その時の機転と対応力がないとできないし、一人でこの空間とここに入る人数を捌かないといけないし、
それを考え始めるととてつもなくめんどくさい。本人がよほどしっかりしてないとできない。そんなの理想だと言う人は言うだろう。
でもそれがうまく行きはじめたらこんな楽しいことはないだろう。「まかない」なんて発想はとても面白い。基本的に人を信頼してる人でないと思いつかないことだ。
いろんな出会いがここで生まれるだろう。電車の中でスマホをいじってる人たちがここで出会うだろう。これをはじめた小林さんの企画力は素晴らしい。
でもこれから実行力が試される。常連さんのためだけの「身内だけの店」になることは慎重に避けなければならない。新しい人に対して常にオープンでなければならない。
考えなければならないことはたくさん。一瞬たりとも気を抜けない毎日が続く。

このカウンターの中は小林さんの「舞台」。その挑戦に拍手を送りたい。
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by kobo-tan | 2015-10-29 16:36 | ものがたり | Comments(0)
2015年 02月 18日

一葉の写真




ホーホストラーテンの「スリッパ」から、去年の10月にFB上で見つけた一葉の写真を思い出した。
杉本光生さんという方の、「沈静」 The calm world と題された写真。
この写真、好きなんです。
鼻緒が真中に寄っているところもいい。
惚れ惚れするような写真です。



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by kobo-tan | 2015-02-18 23:22 | ものがたり | Comments(0)
2015年 02月 18日

ホーホストラーテンのスリッパ



FB友達である、イラストレーター・画家の深津千鶴さんから、いまアニメに取り組んでいて、起承転結の「転」のところばかり追加して、迷子になってしまい、軸になる物語が薄れてしまう、というようなコメントをもらったので、その返信として書いたものです。覚書として残しておきたいので、採録します。


いつも忘れたころにやってくる深津さんのメッセージもすごい!それ、最近ぼくが深津さんに見習おうとしてることなんです。というのは、FBの他の人の投稿を毎日すべて見てるとどうしても反応してしまう記事とかあるし、いろんな情報が頭の中を占めてしまうし、反応して言葉が湧いてくるとどうしても書きたくなってくるし、そしたらただでさえ金欠で次々に仕事こなさなくちゃならないオレなのにFBに時間取られてしまうので、これからは自分へのコメントかメッセージのある時だけ開いて、しばらく他の人の投稿見るのをやめようと、それを基本のFBとの付き合い方にしようと、深津さん流で行こうと思ったのでした。

失敬。前置きがくどいね。どうしても話しかけるように書いてしまうので…本題に入ろう。
「転」も「結」も加減が大事、ってのほんとにその通りですね。「転」を次々に追加していくと迷子になって、いちばん大切な物語が薄れてしまう、というのも一理ある。
でも、一観客の立場になって考えてみるとさ、要は面白ければいいんで、表現ていうのはどうも、主義主張をしだすほどつまらなくなってくる、と思うんです。作者の「思い」がこもってれば素晴らしいかというと、全然そんなことはないんで。何かを発見し、想像を膨らませるのは観客であって、観客にはその「自由」があり、作者の強すぎる思いはむしろその自由を邪魔する。だから作者は、観客にその材料をさし示す以上のことをしちゃいけない、と思うんだよね。「表現」って観客にとっての「窓」であればいい。「窓」から、広告とか宣伝とかスローガンばかり見えたら「窓」閉じたくなっちゃうじゃない?

ドラマとか映画とか表現とかの話は次々にいろんなこと頭に浮かんできりがなくて、それに深津さん、いつも謙虚で、出会った人からいろんなこと吸収しようとしてる人なのでいい気になってついついこうやって書いちゃうんですけど、ま、長い話はそのうちに深津さんの個展か何かにおじゃまできたときにお会いして話すことにして、(最近いろいろまたそっち方面のこと、仕事しつつ本読んだりしてけっこう考えてるんです)

で、最後にひとつだけ。
深津さん、ファン・ホーホストラーテンという画家知ってますか?フェルメールなんかと同時代のオランダの画家らしいんですけど、あ、ごめん、釈迦に説法でしたね。これ、ある本から教えてもらったことで、それ以来このところずーっと思ってることなんですけど、話が急に哲学的になるかもしれないけど、言わんとしてることはそういうことです。続けますね。
そのストラーテンに「スリッパ」という絵があります。どういう絵かというと、家の中のこちら側の室内から、開け放たれたドアの向こうに、廊下をはさんでまた開け放たれたドアがあって、向うにもう一つの部屋があって、その、部屋と部屋に挟まれた廊下に、無造作に脱ぎ棄てられたスリッパがある。ただそれだけの絵なんです。ぼくは知らなかったんで、ネットで検索して見ましたけど、向うの部屋に光が差し込んでたり、箒が立てかけてあったり、ま、要するにその時の情景を丁寧に描写してるだけなんだけど、ぼーっとこの絵を見てると、なんかいいんです。厭きないんですよね。人物も出てこなくて、風景画でもなく、「静物画」ですよね。

うーん、また長くなりそうなので、もしこの絵について興味覚えられたら、ぜひ前田英樹というひとの「倫理という力」とう本の最終章を読んでいただきたいと思います。講談社現代新書から出てる本です。
で、ぼくは途中をすっ飛ばしてなぜこの絵がいいかって言うところにいっちゃいますけど、この中に見える、スリッパも、箒も、椅子も、掛けてある絵も、人間の痕跡です。最初、住んでいる人の日常の、生活のざわめきとかが浮かんできますが、じーっと眺めてると、だんだんそういうのが遠のいていって、何かに入りこんでいくというのか、まわりの音やざわめきが聞こえなくなってきます。

喜びや悲しさや、楽しさや辛さや、要するに感動をエモーションとして表現は生まれるんだろうけども、そしてそれが他者に伝わるためには「切実さ」が必要だと山田太一さんはおっしゃっていますが、そういうものの向こう側に何があるかというと、つまるところそれは、「なぜ在るのか」「なぜ存在するのか」というただひとつの問いなのだと。ひとも、スリッパも、花も、風も、石ころも、雲も、なぜそこに、そういうふうにして在るのか、それだけはわからない。そのわからなさにまず打たれていない表現は、僕は結局つまらないんだと思う。打たれずに、小賢しく解釈してしまうことは、見る人に開かれた表現じゃない。ちょっと抽象的かもしれないですが、それを逃れた物語だけが、いい物語なんだと思うんです。そして、解釈しないぼくらにできることはたぶん、それらを愛することだけなんです。

ホーホストラーテンの絵についても、調べると、遠近法がどうとか透視図法だとか、いろんな「説明」がついてくるけども、そういうこと言ってると大切なものに気づかないまま、この絵を「わかった」ことにして終ってしまいます。この絵は「在るものを愛すること」についての絵なのです。それに気づいたとき、それは僕らに、ぼくらのものの見方に、僕らの生きるやり方に、何か静かに変革を迫ってくるような気がします。遠近法の説明はそんなことはないけども。

「在るものを愛すること」がずっと自分の中にあったので、脈絡なかったかもしれないけど、つなげて書きました。考えてみると、映画でも音楽でも、小説でも詩でも、ぼくの好きなものはみんな、紆余曲折のドラマや、起承転結の物語があっても、結局のところ、「存在する」ことに驚き、すべての「存在する」「在る」ものを愛している作品のような気がします。もっというと、それは信仰というものの発端でもあり、帰結でもあると思うんです。存在することに驚き、「在るもの」の中に神を見れば、イエスが言った「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神を愛せよ」という言葉が、素直に納得できるような気がする。宇宙の果てにいてこちらを見守っている、お爺さんみたいな神様じゃなく、この石ころが神だと、石ころを5分も見てれば思えてくるような気がするんです。

ごめんなさい。長くなりました。
これで終わりです。




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by kobo-tan | 2015-02-18 17:35 | ものがたり | Comments(0)
2015年 02月 15日

告別


平田オリザが高校演劇部を舞台に書いた小説「幕が上がる」。

地区大会突破を決めた翌日、部員たちはこれまで演劇部を引っぱってくれた吉岡先生が女優になるために教師を辞めることを知らされる。
吉岡先生は、演劇部みんなと、部員一人一人に宛てた手紙を残して彼女たちのもとを離れた。
さあ、これからどうする。
頼れる人はもういない。



 手紙を開く。
 最初に、謝りの言葉と、演出についてのいくつかの注意点とか連絡事項みたいなのがあった。それからまた、謝りの言葉があった。そして最後に、次のようなことが書いてあった。
「高橋さんは、まだ進路を決めていないんでしたよね。相談にのってあげられなくてごめんなさい。
 私は、高橋さんは演出家に向いていると思います。あるいはプロデューサーかもしれません。とにかく、演劇が好きなら、舞台の周りで人をまとめる仕事を目指した方がいいと思います。もちろん、本当のプロになれるかどうかは、私には約束できないけれど。
 最近出てきた新しい仕事で、ドラマターグという職種もあります。制作的な視点も持ちながら、劇作家や演出家にアドバイスしたり、、資料を揃えたりして、演出の補佐をしていくような仕事です。幸い、そういうことを学べる大学もいくつか出てきました。普通の大学の文学部に入って、現場でそれを学ぶという道もあります。そういうことを学んでおけば、プロの演出家になれなくても、たとえば故郷に帰って、公共ホールとかで働く可能性も開けます。
 それから、こんなことになってしまってから、こんなことを書くと怒るでしょうが、私は、いつか、高橋さんの演出した舞台に立ちたいです。これは、本当に、心から、そう思っています。
 最後に、宮沢賢治さんの「告別」という詩を書きます。以前、北村想さんの、『想稿・銀河鉄道の夜』を貸したよね。この詩も、北村想さんの他の戯曲の中に引用されていて、それで私は初めて、この詩を知りました。以下、少し長い詩ですが。


告別

おまへのバスの三連音が
どんなぐあひに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管くゎんとをとった
けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ




蛇足をちょっと。

人を励ますことは、本当に難しい。
相手の中のたましいのようなところになんとか届く言葉はないものかと必死で探すのだが
自分の中から出てきた言葉がどうしようもなく嘘に思えて、つい口をつぐんでしまう。
それでもここで声をかけることは自分の使命だと感じて蛮勇を振るってかけた言葉は
あなたを励ますのか
私を励ますのか
わからなくなったりもする。
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by kobo-tan | 2015-02-15 12:14 | ものがたり | Comments(0)
2014年 04月 29日

「嫌われる勇気」




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Facebookへの投稿より…


まれに、この本はまさに自分の(私の)ために書かれたんじゃないかと思うような本に出会うことがある。そういう本はほんの数ページ読めばすぐわかる。そういう時、ぼくは狂喜し、マーカーで線を引きまくり、思いついた言葉を書きこみ、しばらく没頭して読み終える。

岸見一郎氏と古賀史健氏の共著であるこの「嫌われる勇気」もそういう本だった。いま1/3ほど読んだけれどもこの確信は変わらない。なにが書いてあるか、それを一言で言うなら「生きるとはどういうことか」ということなのである。

考えてみると僕は、いつもこういう本を欲していたような気がする。これと同じようなレベルで出会ってきた本は、今でも忘れずに列挙できる。もちろんそれをほんとうに理解し解釈したのかどうかは、常に「自分なりに」という留保がつくのだけれど、10代の後半で出会ったサルトル著・伊吹武彦訳「実存主義とは何か」 そこにはこんなことが書かれていた。

「人間はみずからつくるところ以外の何物でもない。(中略)すなわち人間はまず、未来に向かってみずからを投げるものであり、(中略)人間は何よりも先に、みずからかくあろうと投企したところのものになるのである」

30代前半に読んだ竹田青嗣著「『自分』を生きるための思想入門」では、ニーチェの「ルサンチマン」という考え方を知った。sentiment(感情)という言葉に、re(後ろへ)という接頭辞がついたフランス語で、「後ろ向きの感情」という意味感覚の言葉だ。今手元にこの本がないのでwikipediaの説明を引用するとこういうことになる。

「ルサンチマンを持つ人は非常に受け身で、無力で、フラストレーションを溜めた状態にある。つまり、実際の行動をとるには社会的な制約があり、自身の無力を痛感している人である。そういう状態にあっては誰であっても、ルサンチマンを持つ状態に陥る。(中略)
社会的な弱者はルサンチマンから逃れられない。フラストレーションをむしろ肯定し、何もできないことを正当化するようになる。社会的な価値感を否定したり、反転した解釈を行うようになる。こういった自分の陥っている状態を正当化しようとする願望こそ、奴隷精神の最大の特徴である」

40代の後半に出会った池田晶子の「14歳からの哲学」は、ひたすら、「悩むな!考えろ!」と訴えてくる。http://www.amazon.co.jp/14歳からの哲学-考えるための教科書-池田-晶子/dp/4901510142
Amazonのこの本のページにある91件のカスタマーレビューの一番はじめに、「必ず立ち戻る場所」という僕の書いた感想が載っている。

そして今出会ったのが、この「嫌われる勇気」という本なのである。
こういう本に僕が出会ってしまうのはなぜかと考えると、これまで自分は、実にその時々の成り行きと感情に任せて、行き当たりばったりに生きてきたのであって、「ほんとうに」「ほんらいあるべきありかたで」生きて来たのではなかったという忸怩たる思いにいつもとらわれるからなのだ。それははっきりしている。そういう欠如とか空虚の感覚が自分の中にあり、その感覚がこれらの本に強く結び付くのだ。だからこれらの本から読みとった考え方や態度は、おそらく無意識のうちに確実に、自分の世界観や人生観の核になっている。

仕事に追われ、生活に追われ、年月がたち、「現実」というやつに負けそうになってまた、「生きる」ということはどういうことであったのか忘れそうになると、「忘れるな」と言ってくれる本に出会う。自分という存在は、気付いたときは、ほかでもないここに、こういうあり方で、こういう者として、あった。それ自体は動かし難い。しかし、その後の人生は、自分でつくってゆくものである。誰が何と言おうとそうである。それが「自由」ということなのだ。そしてそのためには、「勇気」が必要なのである。ルサンチマンに陥らないためにも、自分の人生の不足をなにか他のもののせいにしないためにも。自分の人生を自分のものとするためにも、それが必要なのである。

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by kobo-tan | 2014-04-29 14:43 | ものがたり | Comments(0)
2014年 04月 14日

巨大アートの取り付け




Facebookに掲載したものです。



一昨年のリフォームの時に収納家具をつくらせていただいた鎌倉の和田さんから、ご主人の作品を壁に取り付けてもらえないかというご依頼で、家具ならぬ美術作品の取り付けをやってきた。作品は2007年に急逝された美術家和田守弘氏のものでとにかくでっかくて重い。ひとつは2300×910×180の真鍮板でできたキャンバスに描かれた4枚の連作「書物の水」。さすがに4枚は無理で、自宅ギャラリーの片側の壁に3枚プラス白い石膏のオブジェを取り付けた。もう片方には「無題」と題された油絵2000×2000(2枚分割)。芯が450ピッチにしか入っていない普通のお宅の壁に、地震の時に前に倒れてこないようにきっちり取り付けるのはことのほか難しく、大きくかつ重いため旧知の舞踏家、秀島実氏に取り付けを手伝ってもらったにもかかわらず、朝9時から昼食抜きで2時までかかってしまった。壁の上の方を見ながらの作業も多くへとへとになったけれど、終わってみれば奥様の弥生さんのイメージ通りにできたようで、とても喜んでもらえてよかったです。
— 秀島実さんと一緒です。 (写真4枚)



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秀島さんの見立てによると、和田氏の作風は琳派の影響が強いそうです。青の部分は川であると。僕の見立てでは白いオブジェは大天使ミカエル。ー この写真に写っている友達: 秀島実



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by kobo-tan | 2014-04-14 21:43 | ものがたり | Comments(0)
2014年 04月 02日

オルケストラ再び!?



お久しぶりでございます。
2月初めからなんだか続く仕事に追われて、更新する余裕がなくて。
写真は少なからず撮り置きしてはあったのですが。
またぼちぼち始めます。

とりあえず今日は、またフロントロードに挑戦か?というお話。FBに載せた件です。


もう8~9年の付き合いになるヴィンテージオーディオショップオーナーの大澤さんから電話で、「またフロントロードの引き合いが来てさ、一回は断ったんだけどね、いくらならできる?ってしつこく聞かれるもんでね、またあれ、作ってくんないかなあ」写真の箱型の、前にぱっくり口のあいたスピーカーのことなのだ。大澤さんと付き合い始めてまず取り組んだ複雑怪奇な代物である。ワンペアを7~8回作ったろうか。いちばん最後につくったのが2007年か2008年だからやがて6年くらいたつ。その後大澤さんの音の追究はスピーカをくるむ箱そのものを厭って驚くほどシンプルなドーナツ型の平面スピーカーに移行していったのでこの難物をつくることはなくなっていた。なんせこのフロントロードというやつ、ドイツ製の年代物のヴィンテージスピーカーが箱の床にすれすれのところに傾いて下を向いてついており、その音が箱の地板から背中をぐるっと回って前に抜けてくるのである。うーん、悩むなぁ。ベニヤ板に原寸で描いた正面図と側面図は残っているけれど、思い出せるだろうか、その精妙な作りを。また定期的に作るのならまだしも、これ一度きりだとつらいなあ。一人じゃ抱えられないほど重くなる、メープルに15mm厚のフィンランドバーチの鏡板をかませた框作り。正面はなだらかな曲面になる。また挑戦してみるっぺかなぁ。うーん、思案のしどころ


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by kobo-tan | 2014-04-02 21:31 | ものがたり | Comments(0)
2014年 01月 31日

吉野弘さん その2



家具、そろそろアップしますが、もうひとつ吉野弘さんの詩を。
こういう散文詩が吉野さんの本領でもあるかなと思います。
facebookに掲載済みですが、こちらにも掲げておきたいと思います。



吉野弘さんの、「茶の花おぼえがき」という散文詩です。
吉野さんが茶どころである埼玉県狭山市に昭和47年に移り住んで、近くの茶畑で目にしたことから吉野さんの思索がはじまっています。
散文詩と構えずに、エッセイとして読んでもいい。
僕はこの詩の言葉全部が、いまの世の中の苦い暗喩となっているように思えます。ここに引用させていただきますが、読むには少し長いかもしれません。
余裕のある時に読んでいただけたらと思います。読み終えた後、必ず何かが残ります。



 <茶の花おぼえがき>

 井戸端園の若旦那が、或る日、私に話してくれました。「施肥が充分で栄養状態のいい茶の木には、花がほとんど咲きません。」

 花は言うまでもなく植物の繁殖器官、次の世代へ生命を受け継がせるための種子を作る器官です。その花を、植物が準備しなくなるのは、終わりのない生命を幻覚できるほどの、エネルギーの充足状態を内部に生じるからでしょうか。

 死を超えることのできない生命が、超えようとするいとなみ―それが繁殖ですが、そのいとなみを忘れさせるほどの生の充溢を、肥料が植物の内部に注ぎこむことは驚きです。幸か不幸かは、別にして。

 施肥を打ち切って放置すると、茶の木は再び花を咲かせるそうです。多分、永遠を夢見させてはくれないほどの、天与の栄養状態に戻るのでしょう。

 茶はもともと種子でふえる植物ですが、現在、茶園で栽培されている茶の木のほとんどは挿し木もしくは取り木という方法でふやされています。

 井戸端園の若旦那から、こんな話を聞くことなったのは、私が茶所・狭山に引っ越した翌年の春、彼岸ごろ、たまたま、取り木という苗木づくりの作業を、家の近くで見たのがきっかけです。

 取り木は、挿し木と、ほぼ同じ原理の繁殖法ですが、挿し木が、枝を親木から切り離して土に挿しこむところを、取り木の場合は、皮一枚つなげた状態で枝を折り、折り口を土に挿しこむのです。親木とは皮一枚でつながっていて、栄養を補給される通路が残されているわけでです。

 茶の木は、根もとからたくさんの枝に分かれて成長しますから、かもぼこ型に仕上げられた茶の木の畝を縦に切ったと仮定すれば、その断面図は、枝がまるで扇でもひろげたようにひろがり、縁が、密生した葉で覆われています。取り木はその枝の主要なものを、横に引き出し、中ほどをポキリと折って、折り口を土に挿し込み、地面に這った部分は、根もとへ引き戻されないよう、逆U字型の割竹で上から押さえ、固定します。土の中の枝の基部に根が生えた頃、親木とつながっている部分は切断され、一本の独立した苗木になる訳ですが、取り木作業をぼんやり見ている限りでは、尺余の高さで枝先の揃っている広い茶畑が、みるみる、地面に這いつくばってゆくという光景です。

 もともと、種子でふえる茶の木を、このような方法でふやすようになった理由は、種子には変種が生じることが多く、また、交配によって作った新種は、種子による繁殖を繰り返している過程で、元の品種のいずれか一方の性質に戻る傾向があるからです。

 これでは茶の品質を一定に保つ上に不都合がある。そこで試みられたのが、取り木、挿し木という繁殖法でした。この方法でふやされた苗木は、遺伝的に、親木の特性をそのまま受け継ぐことが判り、昭和初期以後、急速に普及し現在に至っているそうです。

 話を本筋に戻しますと―充分な肥料を施された茶の木が花を咲かせなくなるということは、茶園を経営する上で、何等の不都合もないどころか、かえって好都合なのです。新品種を作り出す場合のほか、種子は不要なのです。

 また、花は、植物の栄養を大量に消費するものだそうで、花を咲かせるにまかせておくと、それだけ、葉にまわる栄養が減るわけです。ここでも、花は、咲かないに越したことはないのです。

「随分、人間本位な木に作り変えられているわけです」若旦那は笑いながらそう言い、「茶畑では、茶の木がみんな栄養生長という状態に置かれている」と付け加えてくれました。

 外からの間断ない栄養攻め、その苦渋が、内部でいつのまにか安息とうたた寝に変わっているような、けだるい生長―そんな状態を私は、栄養成長という言葉に感じました。

 で、私は聞きました。

「花を咲かせて種子をつくる、そういう、普通の生長は、何と言うのですか?」

「成熟生長と言っています」

 成熟が死ぬことであったとは!

栄養成長と成熟生長という二つの言葉の不意打ちにあった私は、二つの成長を瞬時に体験してしまった一株の茶の木でもありました。それを私は、こんな風に思い出すことができます。

 ―過度な栄養が残りなく私の体の外に抜け落ち、重苦しい脂肪のマントを脱いだように私は身軽になり、快い空腹をおぼえる。脱ぎ捨てたものと入れ替わりに、長く忘れていた鋭い死の予感が、土の中の私の足先から、膕(ひかがみ)から、皮膚のくまぐまから、清水のようにしみこみ、刻々、満ちてくる。満ちるより早く、それは私の胸へ咽喉へ駆けのぼり、私の睫に、眉に、頭髪に、振り上げた手の指先に、、白い無数の花となってはじける。まるで、私自身の終わりを眺める快活な明るい末期の瞳のように―

 その後、かなりの日を置いて、同じ若旦那から聞いたこういう話がありました。

 ―長い間、肥料を吸収し続けた茶の木が老化して、もはや吸収力を失ってしまったとき、一斉に花を咲き揃えます。

 花とは何かを、これ以上鮮烈に語ることができるでしょうか。

(後略)

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by kobo-tan | 2014-01-31 15:58 | ものがたり | Comments(0)
2014年 01月 16日

山のいぶき



Facebookより





中学時代、陸上部でハードルをやっていたのだが、ある日学校の廊下で音楽の先生に呼び止められ、「川上
くん、コーラス部ば手伝ってくれんね?」「はあ…」コーラス部は女子ばかりで、男子を入れないと四部合唱が
できなかったのである。それから、同じように引き入れられた友達と一緒に、合唱コンクール前は陸上部と掛
け持ち、朝錬や昼休み練習で曲をおぼえて四つか五つくらいコンクールに出ただろうか、たいてい予選で落っ
こちたけれども、3年の最後に出た熊日音楽コンクールでは優良賞をもらって非常にうれしかった。担当はバ
ス。歌った曲の中でもこの曲は今でもよく覚えている。とてもメロディアスで歌っていて気持ちよく、とくにラスト
の、「それーはー やまのー やーまーのーいぶきー…」から終わりまで、ろうろうと歌い上げ音量もマックス、
盛り上げて最後の「いーぶーきー」を歌い切るところまでの気持ちよさったらない。しかも一人じゃなくハモるの
だ。他の声部を聴きながら一番低いベース音で全体を支える感じ。今でもすごくリアルに思い出せる40年前
の出来事。夢も希望もなくなったと思うときは、とりあえず歌ってみたらいいと思う。それも一人じゃなく、誰かと
一緒ならばなおさら。




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by kobo-tan | 2014-01-16 21:59 | ものがたり | Comments(0)
2014年 01月 10日

ふたつのお話




Facebookへの投稿記事です。



20代の頃から勝手に一方的に師とお慕い申し上げている山田太一さんのお話が昨日の朝日に載っていました。長くそういうふうに思っていると、これはあの方にはどう見えるだろうか、これについてはどう考えられるだろうかと、知らず知らずのうちに氏の視点でものを見ているようになり、自分の見かたと区別がつかなくなり、もうそれが自分の考え方になってしまうというか、氏の言葉を使わなければ自分の考えを話すことができなくなってしまったという気がする。そういうふうにして人間は何かを継承していくものなのかもしれません。

鹿島さんもやはり朝日のコラムで知り、「セックスレス亡国論」という新書を読んでおおいに共感しました。僕も経験あるけども、「婚活」っぽい気持ちがどこかにあると、構えてしまってだめなんですよね。鹿島さんがおっしゃるように目的が露骨すぎるから。同性異性を問わず、人と人なんてやはりまず相手に興味を持って、友達になって、いろんなことを話して、やさしさを伝えて、だんだんに好きになっていくもんですもんね。やさしさが伝わればひとはかならず好きになるものですから。

というわけで、読みごたえあるお話ふたつです。



■「絆」より悲しみが人を潤す 小説家、脚本家・山田太一さん

 1977年に放映されたテレビドラマ「岸辺のアルバム」は、核家族化が進み、都心に一戸建てがどんどんと建ち始めた時代の物語でした。外からはきれいに見える平凡な4人家族ですが、内情をみると、バラバラになってしまっている。身も心も会社に捧げる父。孤独を不倫で癒やす母。レイプされて妊娠し、堕胎した姉。国広富之さんが演じる高校生の長男が、それでも問題がなかったように振る舞う欺瞞(ぎまん)だらけの家族に耐えきれず、声高に非難します。

 今はそんな高校生はいないよ、という時代になりました。子どもも情報が多く訳知りにもなり、日常を保証してくれる親に、その生き方を問うような反発はしなくなっているのでしょう。親も子どもの扱いが上手になり、なるべく衝突を避けがちです。お互い本当はどう思っているかが、分かりにくくなって、上っ面で生きている気がします。

 社会全体も70年近く戦争をしないでやってきて、それは何度強調しても足りないくらいすばらしいことですが、戦争の実際を知らない人が大半になり、いざ戦争になったらどういうことになるのかの想像が甘くなってはいないでしょうか。敵はこちら側の人間なら誰彼かまわず、憎しみをみなぎらせて一人残らず殺して当然と向かってくるのですから、その戦いの中での敵と味方と自分を含めた人間の弱さ、醜さ、怖さは平和時の想像を軽く超えてしまいます。

 無論、そういう時代だからこその美しい話も生まれるのでしょうが、それはもうほんの一握りといっていいでしょう。

 そのように時代の局面が変われば、どっと噴き出してくるマイナスを「まさか」と思っているうちに、もうそのただ中にいるということがないとはいえない、という不安があります。東日本大震災の翌日だったでしょうか。近所のスーパーに行ったら、がらがらの棚があちこちにあって、はじめは意味がわかりませんでした。

 「ああ、あの津波の光景をテレビで見て、すぐ食料品や日用品の確保に走った人がこんなにもいたのか」と、自分の甘さ、呑気(のんき)さを思い知りました。すぐに、食料の心配がないことがわかり、被災した人たちの役に立ちたいという感情が広がり、「絆」という言葉がキーワードになっていきましたが、「絆」というのは「少し大げさではないか」と感じました。

 「絆」を辞書であたると、「人と人との断ち難い結びつき」とあり、「例えば、夫婦の」というような用例があり、それを被災した人と、そうではない人との間の言葉に使うとかえって空疎な言葉として被災者に届くではないか、と気がかりでした。本当の苦しみと悲しみは当事者が生きる他はないのですから。とはいえ、被災者が「絆」に文句をつけるわけにもいかないでしょうから、結構流通してしまいました。

 このごろ、とりあえず、ぴったりとした言葉がないので使っているのだろうと思う言葉が、結構本心なのだと知って、底の浅さを感じます。スポーツ選手が多くの人に勇気を与えたいとか、観客が勇気をもらいましたとか。

 今の社会は「本当」のマイナスとは向き合わず、プラスの明るさだけを求めている気がします。テクノロジーの進歩がマイナスの排除に拍車をかけている。社会を効率化し、洗練させることを永続的に追求しようとする動きです。

 世間でマイナスと判断されるものには、実は人間を潤している部分がいっぱいあると思います。人生でも悲しかったり、つらかったりする思い出の方をずっと細かく覚えているものです。リストラに直面しているサラリーマンたちは宿命や限界に鍛えられている側面もある。災害や病気を経験している人とそうでない人とでは、人間の差が生じていると思います。

 急行電車に乗っていると、止まらない駅のホームにぽつんと男がいて、「あれは自分だと思った」という内容の詩がありましたが、ぼくは、各駅停車の駅にいる人が、豊かでかっこよく見える。そうやって、時間の遅さをあえて拾っていくべきではないかと。マイナスと一緒に生きることを自然に受け入れている人の新しい魅力を書いてみたいと思っています。

 (聞き手・古屋聡一)

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 やまだたいち 34年生まれ。「ふぞろいの林檎(りんご)たち」など数多くのドラマの脚本を執筆。「異人たちとの夏」「空也上人がいた」など小説作品も多数。

 ■抱き合えよ、出会えよ男女 フランス文学者・鹿島茂さん

 最近、週刊誌が高齢の読者を対象としたセックス特集をよく組んでいますね。あれは、長寿になって人生が20年ほど後ろ倒しになったからでしょう。人口の多い団塊の世代が、定年を迎えてもまだ元気でヒマを持て余しています。

 この世代は、「好きでもない相手と結婚させられた」という被害意識を持っている人も多いはずです。昔は、特に大きな会社だと独身を貫くのは大変でしたから。結婚が社会的な信用につながり、独身者には海外赴任させない圧力まであった。短大卒の女性を採用していたのも、お嫁さん候補だったからです。会社が結婚を奨励する機能を果たしていたのです。

 いま人生の終盤にさしかかり、これでよかったのかと焦り始めた人もいるわけです。でも実害はありませんから、放っておけばいいんです。現代を「男と女」という視点からみるとき、危機的なのはむしろ若い世代です。異性と付き合った経験も恋人もいない若者が増えている。これは深刻です。確実に少子化が進み、人口がさらに減るわけですから。

 フランスの家族人類学者トッドが世界の家族を分析し、日本や韓国、ドイツは直系家族(権威主義家族)型、イングランドや仏北部は核家族型と分類しています。直系家族型は親が子に権威的で、子の1人と同居する。核家族型は成人した子は親元を離れ独立する。

 これを僕は、男女関係に広げて考えたんです。直系家族型の日本は、親に任せておけば結婚相手を決めてくれた。しかし核家族型は親が関知せず、自助努力で相手を見つける必要があった。だから自分で相手を見つけるための様々な仕組みや文化が生まれ、恋愛に向いた社会になったのだと。

 その最先端がイングランドでした。19世紀初めに、結婚前の男女が一緒にピクニックに行く姿を見て驚いた、と政治学者トクビルが書き留めています。

 やがて、この核家族型の価値観が米国に渡った。そしてハリウッド映画が隆盛期を迎えた1920年代以降、この恋愛結婚イデオロギーが銀幕を通じて世界中に拡散していったのです。ハリウッドが果たした役割はとても大きい。

 日本も戦後、米国に占領されてこの価値観を受け入れました。恋愛結婚至上主義の到来です。問題の根源はここにあります。直系家族型でありながら、形だけは核家族型を導入したことです。

 家族構造こそが社会の価値観を決める、というのがトッドの主張です。社会は一朝一夕には変わらない。かつて恋愛装置でもあった会社もその機能を失いました。装置が不十分なまま、日本は恋愛の自由競争社会に突入したのです。相手が見つからない人が増えたのは当然の結果です。日本や韓国、ドイツなど、少子化しているのは直系家族型の国々です。

 反対に核家族型の国々、たとえばフランスでは社会は何でも男女カップルが前提です。レストランでも独りでは入りにくい。日本には独りで入れる飲食店が山のようにありますが。男女の距離感も違います。触れあったりハグしたりは当たり前。これを日本でやったらセクハラになりますよ。しかも日本のように大事な思春期に男子校、女子校に通学していたら、異性と自然に会話する力も育たない。異性の気を引くことができるのはフレンドリーであること、つまり会話する能力だというのに。

 まずは、男女共学を義務化することだと思います。舞踏会のような出会いの場も必要です。サルサでも盆踊りでもいい。とにかく出会った男女が抱き合って楽しむ場を制度化する。昔の社内運動会で社員がカップルでゴールイン!なんてやっていたのも、ある意味この制度化だったわけですよ。

 いわゆる婚活には致命的な欠陥があります。目的が露骨すぎる。参加しようかなという段階で、すでに心理的なハードルが生まれます。舞踏会だったら「踊るのが楽しいから」って参加できる。人間には口実が必要なんです。

 最小努力で最大利益を得ようと行動するのが人間でもある。放っておいたら、恋愛なんて面倒臭いことはやめて漫画やゲームに没頭するオタクが増えていくでしょう。それが本人にとって幸せなら、誰も何も言えないわけではありますが。

 (聞き手・萩一晶)

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 かしましげる 49年生まれ。明治大学教授。専門は19世紀フランス。著書に「馬車が買いたい!」「職業別パリ風俗」「セックスレス亡国論」など。

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by kobo-tan | 2014-01-10 15:57 | ものがたり | Comments(0)