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2013年 01月 30日

二つの扉(塗装後)



オスモのローズウッド色のオイルにて塗装。
まず、ラワン

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次に、タモ

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ラワンはやはり少し赤く、濃く、なってしまった。タモの方は無難。
ラワンの方だけウォールナット色を塗ったら、色味はもう少し近づいたかもしれないが、たぶん濃さが薄く、少し
間が抜けた感じになったかも。色種を変えるのもリスク高いしな、というところ。

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デスクコーナー・ファイル棚

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デスク下抽斗。 筆記具やハンコなど小さいもの用の薄抽斗。
机の前から少し引っ込んだところに前板が来るようにして、普段あんまり見えないような、
隠し抽斗的な取り付け方をして、前に引き出したときに中が全部見えるようにするために、
本体より長めのレールをつけたところがポイント。ま、ちょっと遊んでみました、的な感じ。
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by kobo-tan | 2013-01-30 17:08 | 製作過程 | Comments(0)
2013年 01月 26日

二つの扉




まずラワン

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次に、タモ

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まだ塗装前だけど、こんな感じ。
どちらかに決めてもらうのも難儀なので、二種類つくってしまった。
二つともあげて好きな方を使ってもらう。
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by kobo-tan | 2013-01-26 13:37 | 製作例 | Comments(0)
2013年 01月 25日

「誇り」という問題



そうやって原則を曲げてばかりいると、「誇り」をなくしていくんだろう。

きのうの新聞に、A首相の「教育再生実行会議が24日から始動する。『教育』は新たな転機を迎えた」という記事が載っていた。



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教科書の近現代史をめぐり、自民党政権は、「自虐的、反日的な歴史観を教えるな」との立場を一貫してとって来た。
いまだに日本の「侵略」の過去を忘れない近隣諸国との国際協調に配慮するという目的で1982年につくられた近隣諸国条項を見直し、「子供たちが日本の伝統文化に誇りを持てる内容の教科書で学べるよう」(公約)にするという。タカ派で鳴るA首相のもとにこの流れは加速するだろう。


しかし、原則ということから考えると、理由はどうあれ、過去にはたらいた悪事をごまかさずに認め、心から相手に謝罪するというのが、前に進んでゆくための原則だ。それがなぜ「自虐」になるのだろう。
これまで多くの証言や調査によって、あるいは戦地から帰ってきて戦友の多くが口を閉ざすなか、勇気を持って自分たちのやってきたことを話した方々の証言によって、すでに客観的に明らかになっている前大戦での「加害の事実」を、認めようとせずごまかす教科書や教育が、どうして子供たちに「誇り」をもたせることができるのか。有名大を出て、頭のいいはずの政治家のセンセイたちが、どうしてそんな理屈の通らないことを言い続けるのかが、よくわからない。論理的思考の不得手な、じつは頭の悪い人たちなのか、それとも、与しやすい国民をつくるために強弁をわざとし続けるのか。


過去にやったことをごまかすことに「誇り」はない。
過去にやったことを認め、そこから出発するところに「誇り」はある。そんなのわかりきったことだ。


戦後、日本の「体制」「大勢」がその原則を曲げ、「誇り」を失くし続けたその果てに、今回の地方公務員の「駆け込み退職」騒ぎもあるのだろう。



「退職金少しでも多く・・・教諭の駆け込み退職続々  埼玉」(朝日新聞記事)


このことは埼玉だけでなくほとんどの県で同様の問題が起きているようだ。各県の県議会で職員の退職金削減案を可決した県議会議員たちは、少しは出るだろうがまさかここまで、とショックだったに違いない。
埼玉県では、たとえば教員が、削減条例施行直前に退職すれば、やめたためにうけとれない2カ月分の給料を差し引いても、現行の退職金を受け取った方が約70万円の得になるという。

そのお金を手にするために、多くのベテラン教師たちが、受け持った生徒たちの進級や卒業を見届けずにやめてゆく。それに怒っている人たちも、その行為自体はしかたがないと(もし自分でもそうするだろうと)思いつつ、その数の多さに、現場の人員補充が追い付かずに混乱することについて怒っている。

今はもうこれほどまでに誰もが、頼れるものは、自分を支えるものはお金だけだ、と思うようになって、だれもそれに否といえるものがなくなったということなのだろう。おそらく、生徒を最後まで見届けるというのは教師というものの「誇り」だったはずなのに、退職金に加えて、食べていくのに不自由のない終身年金までもらえる先生たちは、それでもその70万円のためにあっさりとそんなものは捨ててしまった。

1月末でいなくなったたくさんの先生たちを見て、生徒たちは確信するに違いない。学校で教えてくれることは、結局のところ、カネを稼ぐための技術なんだと。それ以外のものはもう学校にはない。だって、そういう学校現場で、大切なのはお金だけじゃない、もっともっと大切なものはあるんだ、なんて言ったって、唇寒し、二枚舌、CMの宣伝文句みたいなものだ。

そんな学校で、教育委員会は、国は、どんな「誇り」を教えようというんだろう。
その考えの意図がよくわからない。
誇りを持てない人間が、誇りを説けるわけないじゃないか。
やっぱりかなり、世の中おかしい。
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by kobo-tan | 2013-01-25 01:02 | つぶやき | Comments(0)
2013年 01月 24日

'13 読書日記 2



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「夏服を着た女たち」アーウィン・ショー著、常盤新平・訳/講談社文庫




常盤新平さんが亡くなった。
といっても、常盤さんの本は翻訳本しか読んだことがなくて、その本「夏服を着た女たち」を、たまたま一昨日読み返していた。
日々暮らしているとこういう偶然がある。翻訳者が亡くなる前日に、なぜか思い立ってそのひとの訳した本を読む。どうしてだろう。
この本は短編集で、二十代の時に読んだきり中身はほとんど忘れている。一昨日は二つ読んだ。

その中の「原則の問題」という短い話が面白かった。
少し長くなるけれども、しばらくお付き合いを。こんな話だ。

主人公はフィッツシモンズという男。場所はニューヨーク。妻の友人のパーティーに向かうため妻と今タクシーに乗っている。
そのタクシーが、交差点で、つっ込んできたフォードに当てられて、だれにも怪我はなかったものの、車のフェンダーが潰れるなどの損傷を追ってしまう。
フォードの男が出てきてこういう。「どうして目の前に気をつけねえんだ?」先制パンチ。自分の非は認めず、まず相手を責める。
タクシーの運転手は、制帽によれよれの服を着た五十がらみの小柄な男、レオポルド・ターロフ。ロシア移民だ。
フォードの青年、ラスクはすぐかっとなる性質らしく、免許証を見せてくれと言ったターロフの顔面を拳でなぐってしまう。

タ 「お巡りさん!」
妻 「クロード(フィッツシモンズの名)、 こんなことに掛かり合いにならないで、このお二人の好きなように話を決めてもらいましょうよ。」
ラ 「すまなかった!」 「悪かった。あやまるよ。警察を呼ぶのだけはやめてくれ!」
タ 「あんたを留置してもらう」 「あんたは罪をひとつ犯した」 「だからその罰を受けるんだ」

会話だけ抜き出すとこんな感じだ。
成り行きを見守っているフィッツシモンズを、パーティーに遅れることだけ気にする妻がなじる言葉を交えながら事態は進む。

ラ 「何で騒ぎ立てるんだ?毎日あることだ。警察なんか用はないよ。俺はあんたに弁償しよう、レオポルド。そのフェンダーには5ドル払う。それでいい。
  それから、鼻血を出させたことで、もう5ドルだ。どうだい?みんなまるくおさまる。あんたは示談で10ドル手にはいる。この親切な人たちだって、
  パーティーに出るのにこれ以上遅れちゃあまずいよ」
  ・・・・・
妻 「クロード!」 「一晩中ここにがんばっているの?」

4人の会話がそれぞれの人間を際立たせて逐一素晴らしいのだが、このあと結局、警察で証人になって欲しいというターロフに賛同して、
場所が路上から警察へと移る。ニューヨークの警察だ。面倒事は引きも切らない。あんたたちの前に事件が二つもある、と言って警官もあまりやる気がない。
ラスクはどうも前科者らしく、警察にはいる前にぬかりなく仲間4人を電話で呼び出す。その中には小賢しげな弁護士(ピッジャー)と、
ロシア語を話すロシア系の男もいて、なかなか悪知恵ははたらくようだ。

フ 「アデールに電話をかけなさい」 「ぼくらを待たないで食事をはじめてもらうように言うんだ」
タ 「申し訳ありません」 「今晩のご予定をぶちこわしにしてしまって」
フ 「いや、なんでもないんだ」
・・・・・
ピ 「私はピッジャーといいます」 「オルトン・ピッジャーです」 「ラスクさんを代表します」
  「あなたにお願いして、ターロフさんにこの告訴をとりさげてもらうようにしていただきたいのです。関係者には迷惑な話ですからね。
  ごり押ししたところで、誰の得にもなりはしません」

ロシア系の男はターロフに告訴を取り下げるようにロシア語で説得を試みている。が、ターロフは依然として頑固だ。

ラ 「たのんでくれよ」 「だからって困るわけでもないだろう」
・・・・・
フ 「ターロフさん」 「ほんとうにまだ告訴したいのですか?」
タ 「ええ」
ラ 「10ドルだ。あんたに10ドル出すよ。それでたくさんだろう?」
タ 「お金が目的じゃない」
ラ 「何が目的なんだ?」
タ 「目的は、ラスクさん、原則です」
ラ 「(フィッツシモンズへ)あんたから話してくれ」

このあと、ピッジャーと巡査部長が、ラスクが非常に反省していること、告訴手続きが非常に面倒であることをターロフに訴え続ける・・・

タ 「実を言えば」 「こちらが挑発もしないのに、彼はわたしの頭を殴ったのです」 「ある個人が街路上でべつの個人を殴れば法律によって罰せられるはずです」
・・・・
ラ 「おれはかっとしやすいたちなんだ」 「なんなら、おれの頭をぶんなぐってもいいぜ」
タ 「そういうことじゃありません」

しかしいかんせん、多勢に無勢だ。ターロフはとうとうこれ以上我を張り続けることはできないと悟る。

・・・・ターロフは古服の中でしおれきって、疲れたように首を振り、肩をすくめると、巡査部長のデスクの前で遠い乾いた岩場のような原則をきっぱりと捨ててしまった。
「オーケイ」彼は言った。
「ほら」ラスクは魔法のような速さで10ドル紙幣を取りだした。
ターロフはそれを押しやった。「出てってくれ」眼をあげずにそう言った。


このあと、パーティ―会場の家まで3人は誰も口をきかず、フィッツシモンズは無言でターロフに料金を払う。

・・・・ターロフは頭をふった。「あなたはたいへん親切にしてくださいました」 「お金はいりません」

フ 「ほんとうに申し訳ない」 「僕は・・・・」
タ 「いいんですよ」 「よくわかります」

 「時間がないのです。原則なんて」 ターロフは笑って肩をすくめた。「いまは、みんな、忙しいんですよ」
 ギアを入れると、タクシーは、エンジンの音をうるさくひびかせながら、のろのろ走って行った。
 「クロード!」ヘレンが呼んだ。
 「うるさい」フィッツシモンズは叫んで、ふりむくと、アデール・ローリーの家にはいって行った。


これが最後の一節だ。これ、原題は、"The Dry Rock" というらしい。 乾いた岩のような原則、というわけだ。
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by kobo-tan | 2013-01-24 22:36 | | Comments(0)
2013年 01月 24日

タモ無垢のキーボックス




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製作中の、タモ無垢キーボックス。ビスケットジョイントで固め中。

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扉は2.5mm合板を張り合わせた薄扉の引戸。
その引戸の材料を何にするか、考えてる。
順当に行くとタモの突板、でも突板は表面素材は本物だが、やはり工業生産品。最初はタモ柾の方が、とも思ったけど、
それだとよけいにキレイすぎ、人工的すぎと思いなおし、片側3枚、6枚接ぎの突板板目を注文してみた。

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でもこれもやはり工業生産品の哀しさ。板目材は同じブロックから取った0.2mm程度の薄皮を順々に横に貼っていくので
当然こんなグラデーション模様になる。せめてランダムになるように高さをずらして貼ってくれたら、と思うんだが、
それはものすごい手間らしく、できなくはないだろうが、いくら取られるかわかったもんじゃない。
注文主のSさんは人工的は嫌うので、最初はラワンでいいと言っていた。

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ラワンだとロータリー剝きなので継ぎ目がなく人工的ではないのはいいんだが、やはり白っぽいタモよりは赤みが強く、
着色した時に扉だけ濃くなって目立ってしまうんじゃないかと、それが怖いのです。
せっかく作る総無垢高級家具なんだから、(ホント、手間ひまかかる)失敗したくない。

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こんな感じにちがう。(光の向きによってはもうちょっとラワンの方が濃く赤っぽく見える) どうしたらいいもんか。
もう少し考えてみる。
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by kobo-tan | 2013-01-24 13:06 | 製作過程 | Comments(0)
2013年 01月 24日

永遠と一日





あなたがもし10分間、煩わしいすべてのものを忘れて、画面に集中することができるなら、どうぞ上の動画をフルスクリーンにして見てください。
それはおそらく、なにものにも代えがたい10分間になるはずです。台詞は少ないですが、字幕はたぶんイタリア語なので、
ギリシア語とイタリア語の知識がない人にはわからないと思います。言葉がわからなくても、いやむしろ、わからない方が、
いろいろなことを想像することができて、ぼくは面白かった。


初老の男と少年は、親子なのでしょうか?そうでなかったら、どういう関係なのだろう。
やって来たバスに、思いついたように飛び乗ったふたりが、バスの中で目にするものは、なんていうんだろう、
或る、人生の輝き、そういうものに満ちています。


バスの窓から見える船の灯り。
同伴して走る自転車。
無愛想な車掌。
デモをしていたらしき赤旗の学生。
政治には関心のなさそうなあまりうまくいっていないカップル。
三人の音楽隊。
束の間の時間、そこでさまざまな人生が交差する。
それは眺めているだけで、なんとおもしろいことだろう。
人間はじつに、それぞれの個有の物語をもって生きていることか。


これは、ギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスの「永遠と一日」という映画の一部分です。
調べれば、あらすじや、男と少年の関係もわかりますが今は書きません。
アンゲロプロスは、たくさんの素晴らしい映画を残して、昨年、76歳で亡くなりました。
明日1月24日は一周忌にあたります。
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by kobo-tan | 2013-01-24 02:17 | 映画・ドラマ | Comments(0)
2013年 01月 19日

坂口安吾とトニー・ベネット



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少し前のことになるが、今年最初の朝日新聞日曜の読書欄で服飾デザイナーの山本耀司氏が坂口安吾の「風と光と二十の私と」を紹介していた。その小説は、坂口安吾が二十歳そこそこの時に小学校の代用教員をしていた経験をふりかえって書いた掌編で、自伝的エッセイと紹介されることもある。山本氏は安吾が大好きらしく、この掌編もいま読んでも非常に価値のある優れた教育論であると書いている。たしかにそういうところもあるし、なんにも惑わされずある精神的な境地に達しようとしている安吾が、「子供」という鏡を得て素直に自己の思いを表出したなかなか素敵な一篇である。


安吾についてはこんな記憶がある。
高校生の頃熊本の古本屋でどこかの文学全集のなかの坂口安吾の巻を買って持っていた。ある天気のいい午後、それを下宿の二階の部屋で読んでいて、読み進むうちにだんだん気が遠くなってくる感じがして、読み終わり畳に仰向けに寝転がって、開け放した窓の向うの、四角く切り取られた青い空と雲をぼーっとながめていた記憶だ。その時に読んだ短編もおぼえている。青鬼の褌を洗う女という話だ。こちらは、若いお妾さんの一人語りで、登場人物もいろいろあり会話もあるのだけど、やはりこれも精神のある境地を語りたいという雰囲気が濃くて、いささか観念小説、小説風エッセイと読めないことはない。なぜ題名まで覚えているのかというと、最後の一行の言葉にちょっとしびれたのだった。「すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。」という言葉だ。読み終えて、午後の青い空と雲をながめていると、啄木の「空に吸われし十五の心」みたいになった。先のことはすべて茫洋として、何も知らない十八歳だった。


この記憶と繋がって、トニー・ベネットとビル・エバンスの共演したレコードの曲が出てくるのは、そのころそんなジャズのレコードをカセットに録音してよく聞いてたからだ。カーメン・マクレエとかそんな青年が聞きそうもないものを渋がって聞いていたいやらしい子供だった。でもその日、空をながめていた時に流していたのは確かにこの曲だった、という気がする。その時のやや放心状態にぴったり重なってくる。ま、そんなこと、他人にはどうでもいいことなんですけど。



My Foolish Heart/Tony Bennett & Bill Evans Album(1975)
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by kobo-tan | 2013-01-19 23:57 | | Comments(0)
2013年 01月 18日

'13 読書日記 1



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「おぼれる人生相談」松浦理英子 著/角川文庫




ひょんなことから手にとって読んでみたらついつい引き込まれ、もはや手放せなくなり読み飛ばすのも惜しくて、
ひとつひとつじっくりと大事に読んでいるところです。松浦理英子さんは寡作の純文学系作家で、小説はまだ読んだことはなくこれが初めて。
ひとことで言うと、大人、です。松浦さんが、というより松浦さんの姿勢が、です。いま半分ほど読んだところですが、
この人生相談はしずかな驚きです。じつにいろいろな悩みが寄せられていますが、どんな相談に対しても回答者たる
松浦さんの姿勢はいささかもぶれません。それは見事です。

そうきたか、と回答の切り口の鮮やかさとか料理の仕方に感心するというのではないのです。うまいこと言うなぁというところがたくさんあるというのでもありません。
むしろ著者はあえてそれを避けています。何言ってんだか、と思うようないわば浅い悩みから、これは辛いなあと思うような深い悩みまで、
その悩みが生じている状況を細かく丁寧にたどり、そうすることで相談者の思いをふわりと柔らかく受け止め、その悩みを適度な距離を保ちながら共有し、整理し、
そこで確かに言えることだけを優しく注意深く述べてゆく。「相談をだしにして自己を語る」ということにならないように、あくまでも相談者の側に寄り添って、
少しでもその悩みが軽くなるようにはげます。その姿勢がいささかもぶれないことに打たれるのです。

松浦さんの回答に対して、相談者の三分の一の方々からお礼の手紙が届いたというのも、もっともなことと頷けます。
これを著者は38歳のときに「月刊カドカワ」誌上で行っています。いや恐れ入りました。聡明なひとはいるものです。
自分などにはとてもこんな言葉は出てこない。しかも40歳前に! 多くの方にお勧めします。
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by kobo-tan | 2013-01-18 01:28 | | Comments(0)
2013年 01月 13日

制服~かもめ~帰らんちゃよか

おとといこのブログに取り上げたポール・サイモンのアメリカン・チューンはほんとうに諦念に満ちた歌で、この
歌に多くのアメリカ人が共感したということに内心驚いたのだが、彼は歌の中で、自分たちはいま不確実な時
代を生きていて、かつて持っていた輝きも、夢も、安らぎの場所もなくしてしまった、神の祝福もないと、散々な
ことを言う。なんというか、喪失感、そのもののような歌だ。

でも考えてみると、どうも人間はなにかを失ったときに歌を歌い、その歌に共感する性質があるらしい。恋の
歌のほとんどは、失恋の歌じゃないか? 恋がうまくいってハッピーハッピーみたいな歌がはやったことがあっ
たろうか。アイドル系の歌にはあるかもしれないが、少なくともそんな歌に感動するだろうか。やっぱり、失恋
の歌じゃないとこころは動かされないんだ。演歌なんてみんな、夢破れた者たちの歌だ。なくしたものを取り戻
したいという思いが歌になるのだろうか。なくしたときにはじめて、なくしたものを愛そうとするかのように。

ではこの日本で、この歌のように、多くの日本人のこころをすくい上げて包み込んでくれた歌はないのだろうか
と考えてみる。多くの日本人は、これまでなにをなくし続けてきたのだろう。これは東京に生まれて東京に暮ら
している方たちにはあまりピンとこないかもしれないけれど、それは故郷かなと思う。自分は地方出身者なの
でそれはすとんと納得できるところがある。でも、空間的なことだけでなく時間的な隔たりも考えに入れれば、
東京出身の方にも故郷喪失の思いはあるのではないだろうか。街の風景だって、この国ほど変化の目まぐる
しい国はないだろう。過去を懐かしむ気持ちは誰しもが持つ感情だし、なにかを失ってしまったという気持ちは
多かれ少なかれみんなのこころの中にあるのだろう。






吉田拓郎のなかでいちばん好きな歌がこの歌だ。
かつて高度成長期の象徴のように、集団就職という言葉があった。地方の農村から都市へ、多くの若者たち
が金の卵ともてはやされながら運ばれた。この歌は、集団就職列車で東京駅に着いた娘たちに語りかけるよ
うに歌われていて、故郷から離れて都会に吸い込まれてゆく少女たちに思いを馳せている。これが歌われた
のは1970年代初めのこと。地味な歌ではあるがこの歌に共感する人は多かったんじゃないかと思う。







故郷をなくすとひとは漂流者になる。これは1980年代半ばの歌だけど、ちあきなおみのように歌のうまいひと
はジャズでも演歌でもシャンソンでもなんでも歌えてしまう。いまはこんな感じの歌をあまり聞かないが、かつ
ての演歌はこんなふうに漂流する人のこころをうたったものがたくさんあったように思う。中島みゆきとか、長
淵とか、自作自演系のひとたちにも通じる歌がたくさんあった。70年代、80年代は故郷もまだ、磁力のような
ものを保っていたのかもしれない。






そして1990年代、この歌がでてくる。
実はこの歌を知ったのはつい少し前のことなんだけど、これを初めて聞いたときは演歌はとうとうここまで来た
のかと愕然とするものがあった。ぼくのような地方出身者は、たぶんこの歌を聞き流すようなことはできないだ
ろう。歌詞がどうにもリアルすぎるのだ。調べてみるとやはりこの歌は、熊本出身の関島秀樹という自作自演
歌手のつくった歌で、この歌を知ったばってん荒川さんが感動して自分の持ち歌にしたらしかった。この歌の
訴える力はすごい。共感する人、身につまされるひとは多いはずだ。しかしやはり、大きくヒットするということ
はなかったんだろう。テレビラジオでもそれほど頻繁に登場することはなかったのだろう。だって辛すぎるも
の、この歌は。数年前に亡くなられたばってん荒川さんの歌唱が胸に迫る。


実はこの歌は、東北大学名誉教授の酒井惇一さんのブログで知った。酒井さんはこの歌を知った経緯と感想
を素晴らしい文章で書いておられた。興味をもたれた方は併せてそちらの方も読んでいただきたいと思う。酒
井さんは宝物のようなブログを書き続けていらっしゃる。それを読むことができることに感謝したいと思う。

『帰らんちゃよか』-消えるふるさと―   /  酒井惇一
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by kobo-tan | 2013-01-13 03:20 | 音楽 | Comments(0)
2013年 01月 12日

年末年始読書日記 5


「漁船の絵」 アラン・シリトー 著 新潮文庫「長距離走者の孤独」所収

ともあれ佐藤亜紀の小説に対するアプローチはどうにもアカデミックすぎるので、ちょっと小説らしい小説を読
みたいなあと思っているうちになんとなく思い出したのがシリトーの「漁船の絵」だった。これは短編ですぐ読
めるので、うちにあった昔の古い文庫本を引っ張り出して来て読んだ。長年、郵便配達をしてきた男の回想
記。
              ○                     ○

男は本好きで、ということは孤独が好きだったということかな、家にいるときはたいてい本を読んでいる。6年
間連れ添ってきたキャスィーという妻がいる。一、二度妊娠したことはあるが子供はいない。あるとき夫婦喧嘩
をして、夫の読んでいた本を妻が暖炉の中に投げ入れて燃やしてしまう。それから一月後、妻は「出てゆきま
す、もう帰りません」という書置きを残して、ペンキ屋と駆け落ちしてしまう。一人になった男ははじめは淋しい
思いもするが一人の暮らしに落ち着きも感じ、なんとなく日々は過ぎてゆき10年が経ってしまう。

ある金曜日の晩にキャスィーが訪ねてくる。ここの場面がとてもいい。
「こんばんは、ハリー(男の名)」
「ねえ、ずいぶん久しぶりね」
「やあ、キャスィー」
「あれからどうしてる」
「まあね」
「どうして腰をおろさないんだい?キャスィー。じきに火をおこすよ」
「一人でちゃんとやってるわね」
こんな会話が、とぎれとぎれに、さまざまに視線を交錯させながら交わされる。二人はいまの暮らし向きのこと
や昔の思い出なんかを穏やかそうに話し合う。ペンキ屋は鉛毒で死んだという。家の壁には結婚していた時
からずっとあった漁船の絵がかかっている。妻はその絵を見ていて男に、あの絵が欲しいわ、と言う。欲しか
ったら持って行っていいと、男は丁寧に梱包して渡してやると、妻はじゃあまたねと言って帰っていく。

それから二、三日して男は質屋のショーウインドウの中に漁船の絵を見つける。最初信じられない気持だった
が、キャスィーはひどく困っているに違いないと思ってその絵を買い取ってくる。それから次の週にまた妻がや
ってきて、仕事を首になってすぐに次の仕事が見つかったなどという話をしながら、壁の漁船の絵を見るが少
しも驚かない。彼女は「あれ、いい絵ねぇ、とても好きだったわ」なんてことを言いながら帰ってゆく。

それから毎週木曜の晩に妻はやってきて、言葉少なだけど、二人でお茶を飲んで、くつろいだ時間を過ごすよ
うになる。そして帰る時はいつも決まって小金を借りてゆくようになる。妻は時々壁の絵をながめては絵を褒
めた。しかし妻に渡すとまた質屋行きになると思い自分からあげようとは言わなかった。そんなふうにして6年
が過ぎていったある木曜に、妻がまたはっきりとあの絵が欲しいと切りだす。男は拒まず、また丁寧に紐で結
わえて妻に渡してやる。

そしてまた前と同じことになる。男は質屋で絵を見つけるが、今度は買い戻しに行かなかった。そうすればよ
かった、と男は思う。その二、三日あとでキャスィーが事故に遭い、死んでしまったからだ。彼女は晩の6時に
トラックにひかれて死んだ。漁船の絵を持っていたが、めちゃめちゃになって血で汚れていた。男はその晩漁
船の絵を火にくべて焼いた。

               ○                          ○

そこから3ページでこの小説は終わるんだけど、その最後の2行を読むといつも込み上げてくるものがあって涙が
滲んでしまう。生きてゆくことはけっきょく悔恨しか残さないのかと思うと、辛く切ない気持になる。ぼくらは、男
の述懐をとおしてキャスィーという女のことを考える。キャスィーは自分からは何も弁明しない。男の目に映っ
た一人の女の像があるだけ。いろんなことは不可解のままだ。しかし、引き込まれて読んでいき、この二人を
身近に感じるようになって、二人の人生を小説の中ではあるが思いやるようになった時、なにか透明で深い真
実らしきものを受け取るような気がする。解釈や判断や処世訓やモラルはもうどこかへ行ってしまって、なに
か言葉にならない重いものだけが残る。

男の感慨は、作者シリトーの感慨かもしれない。でも男は、この短い小説の中に確かに生きていて、男の目に
映るキャスィーもまたそうだ。文庫本で30ページちょっとのこの物語は紛れもない「小説」であるに違いない。
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by kobo-tan | 2013-01-12 20:56 | | Comments(0)