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2014年 01月 31日

家具としてのキッチン




去年の11月に、シンク台を工房蔵ー樹のツカサ(神崎)くん、抽斗部分をboisの榊間君にたのんで、みんなでつくったキッチンが、
イマイさんの施工すべて完了して写真が掲載されました。

光線の加減かもしれませんが、ブラウンを少し足して着色されたのか、少し茶色味が濃くなったナラの色が、
機能什器としてのキッチンではなく、家具としてのキッチンを際立たせている、そんな感じですかね。

抽斗のラインと、ナラの横目杢がすっきりとまとまって、かっこいいと思います。デザインセンスを感じます。


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by kobo-tan | 2014-01-31 16:24 | 製作例 | Comments(0)
2014年 01月 31日

吉野弘さん その2



家具、そろそろアップしますが、もうひとつ吉野弘さんの詩を。
こういう散文詩が吉野さんの本領でもあるかなと思います。
facebookに掲載済みですが、こちらにも掲げておきたいと思います。



吉野弘さんの、「茶の花おぼえがき」という散文詩です。
吉野さんが茶どころである埼玉県狭山市に昭和47年に移り住んで、近くの茶畑で目にしたことから吉野さんの思索がはじまっています。
散文詩と構えずに、エッセイとして読んでもいい。
僕はこの詩の言葉全部が、いまの世の中の苦い暗喩となっているように思えます。ここに引用させていただきますが、読むには少し長いかもしれません。
余裕のある時に読んでいただけたらと思います。読み終えた後、必ず何かが残ります。



 <茶の花おぼえがき>

 井戸端園の若旦那が、或る日、私に話してくれました。「施肥が充分で栄養状態のいい茶の木には、花がほとんど咲きません。」

 花は言うまでもなく植物の繁殖器官、次の世代へ生命を受け継がせるための種子を作る器官です。その花を、植物が準備しなくなるのは、終わりのない生命を幻覚できるほどの、エネルギーの充足状態を内部に生じるからでしょうか。

 死を超えることのできない生命が、超えようとするいとなみ―それが繁殖ですが、そのいとなみを忘れさせるほどの生の充溢を、肥料が植物の内部に注ぎこむことは驚きです。幸か不幸かは、別にして。

 施肥を打ち切って放置すると、茶の木は再び花を咲かせるそうです。多分、永遠を夢見させてはくれないほどの、天与の栄養状態に戻るのでしょう。

 茶はもともと種子でふえる植物ですが、現在、茶園で栽培されている茶の木のほとんどは挿し木もしくは取り木という方法でふやされています。

 井戸端園の若旦那から、こんな話を聞くことなったのは、私が茶所・狭山に引っ越した翌年の春、彼岸ごろ、たまたま、取り木という苗木づくりの作業を、家の近くで見たのがきっかけです。

 取り木は、挿し木と、ほぼ同じ原理の繁殖法ですが、挿し木が、枝を親木から切り離して土に挿しこむところを、取り木の場合は、皮一枚つなげた状態で枝を折り、折り口を土に挿しこむのです。親木とは皮一枚でつながっていて、栄養を補給される通路が残されているわけでです。

 茶の木は、根もとからたくさんの枝に分かれて成長しますから、かもぼこ型に仕上げられた茶の木の畝を縦に切ったと仮定すれば、その断面図は、枝がまるで扇でもひろげたようにひろがり、縁が、密生した葉で覆われています。取り木はその枝の主要なものを、横に引き出し、中ほどをポキリと折って、折り口を土に挿し込み、地面に這った部分は、根もとへ引き戻されないよう、逆U字型の割竹で上から押さえ、固定します。土の中の枝の基部に根が生えた頃、親木とつながっている部分は切断され、一本の独立した苗木になる訳ですが、取り木作業をぼんやり見ている限りでは、尺余の高さで枝先の揃っている広い茶畑が、みるみる、地面に這いつくばってゆくという光景です。

 もともと、種子でふえる茶の木を、このような方法でふやすようになった理由は、種子には変種が生じることが多く、また、交配によって作った新種は、種子による繁殖を繰り返している過程で、元の品種のいずれか一方の性質に戻る傾向があるからです。

 これでは茶の品質を一定に保つ上に不都合がある。そこで試みられたのが、取り木、挿し木という繁殖法でした。この方法でふやされた苗木は、遺伝的に、親木の特性をそのまま受け継ぐことが判り、昭和初期以後、急速に普及し現在に至っているそうです。

 話を本筋に戻しますと―充分な肥料を施された茶の木が花を咲かせなくなるということは、茶園を経営する上で、何等の不都合もないどころか、かえって好都合なのです。新品種を作り出す場合のほか、種子は不要なのです。

 また、花は、植物の栄養を大量に消費するものだそうで、花を咲かせるにまかせておくと、それだけ、葉にまわる栄養が減るわけです。ここでも、花は、咲かないに越したことはないのです。

「随分、人間本位な木に作り変えられているわけです」若旦那は笑いながらそう言い、「茶畑では、茶の木がみんな栄養生長という状態に置かれている」と付け加えてくれました。

 外からの間断ない栄養攻め、その苦渋が、内部でいつのまにか安息とうたた寝に変わっているような、けだるい生長―そんな状態を私は、栄養成長という言葉に感じました。

 で、私は聞きました。

「花を咲かせて種子をつくる、そういう、普通の生長は、何と言うのですか?」

「成熟生長と言っています」

 成熟が死ぬことであったとは!

栄養成長と成熟生長という二つの言葉の不意打ちにあった私は、二つの成長を瞬時に体験してしまった一株の茶の木でもありました。それを私は、こんな風に思い出すことができます。

 ―過度な栄養が残りなく私の体の外に抜け落ち、重苦しい脂肪のマントを脱いだように私は身軽になり、快い空腹をおぼえる。脱ぎ捨てたものと入れ替わりに、長く忘れていた鋭い死の予感が、土の中の私の足先から、膕(ひかがみ)から、皮膚のくまぐまから、清水のようにしみこみ、刻々、満ちてくる。満ちるより早く、それは私の胸へ咽喉へ駆けのぼり、私の睫に、眉に、頭髪に、振り上げた手の指先に、、白い無数の花となってはじける。まるで、私自身の終わりを眺める快活な明るい末期の瞳のように―

 その後、かなりの日を置いて、同じ若旦那から聞いたこういう話がありました。

 ―長い間、肥料を吸収し続けた茶の木が老化して、もはや吸収力を失ってしまったとき、一斉に花を咲き揃えます。

 花とは何かを、これ以上鮮烈に語ることができるでしょうか。

(後略)

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by kobo-tan | 2014-01-31 15:58 | ものがたり | Comments(0)
2014年 01月 22日

吉野弘さん


<Facebookより>



詩人の吉野弘さんが亡くなられた。
吉野さんの詩は味わい深くしかも平明であったために、国語の教科書などでもよく取り上げられた。学習塾の専任講師をしていた20数年前のこと、小学6年の国語の問題集の中にこの詩についてのエッセイがあって、子どもには言葉としては詩の意味を理解できても、この詩の深い味わいは大人になって自分で生きてみないことにはわかるわけないなと思ったものだった。その問題文の中で初めて読んだその詩に、自分が感動していたから。
吉野さんはこのほかにも素晴らしい詩をたくさん残された。御冥福を祈る。


「虹の足」   
         吉野弘

   雨があがって
   雲間から
   乾麺(かんめん)みたいに真直な
   陽射しがたくさん地上に刺さり
   行手に榛名山(はるなさん)が見えたころ
   山路を登るバスの中で見たのだ、虹の足を。
   眼下にひろがる 田圃(たんぼ)の上に
   虹がそっと足を下ろしたのを!
   野面にすらりと足を置いて
   虹のアーチが軽やかに
   すっくと空に立ったのを!

   その虹の足の底に
   小さな村といくつかの家が
   すっぽり抱かれて染められていたのだ。
   それなのに
   家から飛び出して虹の足にさわろうとする人影は見えない。
   ――おーい、君の家が虹の中にあるぞォ
   乗客たちは頬(ほほ)を火照(ほて)らせ
   野面(のづら)に立った虹の足に見とれた。
  
   多分、あれはバスの中の僕らには見えて
   村の人々には見えないのだ。

   そんなこともあるのだろう
   他人には見えて
   自分には見えない幸福の中で
   格別驚きもせず
   幸福に生きていることが――。
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by kobo-tan | 2014-01-22 03:29 | つぶやき | Comments(0)
2014年 01月 16日

山のいぶき



Facebookより





中学時代、陸上部でハードルをやっていたのだが、ある日学校の廊下で音楽の先生に呼び止められ、「川上
くん、コーラス部ば手伝ってくれんね?」「はあ…」コーラス部は女子ばかりで、男子を入れないと四部合唱が
できなかったのである。それから、同じように引き入れられた友達と一緒に、合唱コンクール前は陸上部と掛
け持ち、朝錬や昼休み練習で曲をおぼえて四つか五つくらいコンクールに出ただろうか、たいてい予選で落っ
こちたけれども、3年の最後に出た熊日音楽コンクールでは優良賞をもらって非常にうれしかった。担当はバ
ス。歌った曲の中でもこの曲は今でもよく覚えている。とてもメロディアスで歌っていて気持ちよく、とくにラスト
の、「それーはー やまのー やーまーのーいぶきー…」から終わりまで、ろうろうと歌い上げ音量もマックス、
盛り上げて最後の「いーぶーきー」を歌い切るところまでの気持ちよさったらない。しかも一人じゃなくハモるの
だ。他の声部を聴きながら一番低いベース音で全体を支える感じ。今でもすごくリアルに思い出せる40年前
の出来事。夢も希望もなくなったと思うときは、とりあえず歌ってみたらいいと思う。それも一人じゃなく、誰かと
一緒ならばなおさら。




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by kobo-tan | 2014-01-16 21:59 | ものがたり | Comments(0)
2014年 01月 13日

シナウエルトソー合板のキッチン




昨年の夏の初めにつくったシナウエルトソー合板を使ったキッチンの完成写真を、建築家の小森さんが送ってくれました。


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シナウエルトソー合板にオイルフィニッシュを施した仕上げ。
普通のシナ合板にオイルやウレタンのクリア塗装をすると、塗料の吸い込みが激しすぎてまっ黄っ黄になって、
ちょっとこれは…って感じなのですけど、ウエルトソーを使うとそうならないんです。
写真のように、桜色っぽくなってきれいなんです。
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by kobo-tan | 2014-01-13 00:10 | 製作例 | Comments(0)
2014年 01月 12日

青年は荒野をめざす


Facebookより



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今朝のTOKYO-FM Panasonic melodious library は、1967年発表の五木寛之「青年は荒野をめざ
す」。いまではエッセイストのようになっておられるけれども、当時から70年代くらいまでの五木寛之は超人気
作家で青年たちのカリスマ。長髪のその姿もダンディーでかっこよかった。「さらばモスクワ愚連隊」「デラシネ
の旗」「内灘夫人」「青春の門」…世代に与えた影響は計り知れない。


「青年は荒野をめざす」の主人公ジュンが、おれは寒さに震えて眠れなかったこともない、飢えてひもじさに泣
いたこともない、おれはもっともっと苦労しなければいけない、みたいなことを言う。艱難辛苦を求めて世界に
旅立つわけだ。狭き門より入れ。こんなストイシズムがおそらく70年代までは、世代に関係なくまじめに説得
力を持っていた。いま現在、たとえば村上春樹の小説の中で主人公がこういう言葉をつぶやく図は想像できる
だろうか。つぶやけないとしたら、どうしてつぶやけなくなってしまったのか。そんなことを考えることも、何かを
探す糸口にはなる。
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by kobo-tan | 2014-01-12 13:24 | 社会 | Comments(0)
2014年 01月 10日

ふたつのお話




Facebookへの投稿記事です。



20代の頃から勝手に一方的に師とお慕い申し上げている山田太一さんのお話が昨日の朝日に載っていました。長くそういうふうに思っていると、これはあの方にはどう見えるだろうか、これについてはどう考えられるだろうかと、知らず知らずのうちに氏の視点でものを見ているようになり、自分の見かたと区別がつかなくなり、もうそれが自分の考え方になってしまうというか、氏の言葉を使わなければ自分の考えを話すことができなくなってしまったという気がする。そういうふうにして人間は何かを継承していくものなのかもしれません。

鹿島さんもやはり朝日のコラムで知り、「セックスレス亡国論」という新書を読んでおおいに共感しました。僕も経験あるけども、「婚活」っぽい気持ちがどこかにあると、構えてしまってだめなんですよね。鹿島さんがおっしゃるように目的が露骨すぎるから。同性異性を問わず、人と人なんてやはりまず相手に興味を持って、友達になって、いろんなことを話して、やさしさを伝えて、だんだんに好きになっていくもんですもんね。やさしさが伝わればひとはかならず好きになるものですから。

というわけで、読みごたえあるお話ふたつです。



■「絆」より悲しみが人を潤す 小説家、脚本家・山田太一さん

 1977年に放映されたテレビドラマ「岸辺のアルバム」は、核家族化が進み、都心に一戸建てがどんどんと建ち始めた時代の物語でした。外からはきれいに見える平凡な4人家族ですが、内情をみると、バラバラになってしまっている。身も心も会社に捧げる父。孤独を不倫で癒やす母。レイプされて妊娠し、堕胎した姉。国広富之さんが演じる高校生の長男が、それでも問題がなかったように振る舞う欺瞞(ぎまん)だらけの家族に耐えきれず、声高に非難します。

 今はそんな高校生はいないよ、という時代になりました。子どもも情報が多く訳知りにもなり、日常を保証してくれる親に、その生き方を問うような反発はしなくなっているのでしょう。親も子どもの扱いが上手になり、なるべく衝突を避けがちです。お互い本当はどう思っているかが、分かりにくくなって、上っ面で生きている気がします。

 社会全体も70年近く戦争をしないでやってきて、それは何度強調しても足りないくらいすばらしいことですが、戦争の実際を知らない人が大半になり、いざ戦争になったらどういうことになるのかの想像が甘くなってはいないでしょうか。敵はこちら側の人間なら誰彼かまわず、憎しみをみなぎらせて一人残らず殺して当然と向かってくるのですから、その戦いの中での敵と味方と自分を含めた人間の弱さ、醜さ、怖さは平和時の想像を軽く超えてしまいます。

 無論、そういう時代だからこその美しい話も生まれるのでしょうが、それはもうほんの一握りといっていいでしょう。

 そのように時代の局面が変われば、どっと噴き出してくるマイナスを「まさか」と思っているうちに、もうそのただ中にいるということがないとはいえない、という不安があります。東日本大震災の翌日だったでしょうか。近所のスーパーに行ったら、がらがらの棚があちこちにあって、はじめは意味がわかりませんでした。

 「ああ、あの津波の光景をテレビで見て、すぐ食料品や日用品の確保に走った人がこんなにもいたのか」と、自分の甘さ、呑気(のんき)さを思い知りました。すぐに、食料の心配がないことがわかり、被災した人たちの役に立ちたいという感情が広がり、「絆」という言葉がキーワードになっていきましたが、「絆」というのは「少し大げさではないか」と感じました。

 「絆」を辞書であたると、「人と人との断ち難い結びつき」とあり、「例えば、夫婦の」というような用例があり、それを被災した人と、そうではない人との間の言葉に使うとかえって空疎な言葉として被災者に届くではないか、と気がかりでした。本当の苦しみと悲しみは当事者が生きる他はないのですから。とはいえ、被災者が「絆」に文句をつけるわけにもいかないでしょうから、結構流通してしまいました。

 このごろ、とりあえず、ぴったりとした言葉がないので使っているのだろうと思う言葉が、結構本心なのだと知って、底の浅さを感じます。スポーツ選手が多くの人に勇気を与えたいとか、観客が勇気をもらいましたとか。

 今の社会は「本当」のマイナスとは向き合わず、プラスの明るさだけを求めている気がします。テクノロジーの進歩がマイナスの排除に拍車をかけている。社会を効率化し、洗練させることを永続的に追求しようとする動きです。

 世間でマイナスと判断されるものには、実は人間を潤している部分がいっぱいあると思います。人生でも悲しかったり、つらかったりする思い出の方をずっと細かく覚えているものです。リストラに直面しているサラリーマンたちは宿命や限界に鍛えられている側面もある。災害や病気を経験している人とそうでない人とでは、人間の差が生じていると思います。

 急行電車に乗っていると、止まらない駅のホームにぽつんと男がいて、「あれは自分だと思った」という内容の詩がありましたが、ぼくは、各駅停車の駅にいる人が、豊かでかっこよく見える。そうやって、時間の遅さをあえて拾っていくべきではないかと。マイナスと一緒に生きることを自然に受け入れている人の新しい魅力を書いてみたいと思っています。

 (聞き手・古屋聡一)

     *

 やまだたいち 34年生まれ。「ふぞろいの林檎(りんご)たち」など数多くのドラマの脚本を執筆。「異人たちとの夏」「空也上人がいた」など小説作品も多数。

 ■抱き合えよ、出会えよ男女 フランス文学者・鹿島茂さん

 最近、週刊誌が高齢の読者を対象としたセックス特集をよく組んでいますね。あれは、長寿になって人生が20年ほど後ろ倒しになったからでしょう。人口の多い団塊の世代が、定年を迎えてもまだ元気でヒマを持て余しています。

 この世代は、「好きでもない相手と結婚させられた」という被害意識を持っている人も多いはずです。昔は、特に大きな会社だと独身を貫くのは大変でしたから。結婚が社会的な信用につながり、独身者には海外赴任させない圧力まであった。短大卒の女性を採用していたのも、お嫁さん候補だったからです。会社が結婚を奨励する機能を果たしていたのです。

 いま人生の終盤にさしかかり、これでよかったのかと焦り始めた人もいるわけです。でも実害はありませんから、放っておけばいいんです。現代を「男と女」という視点からみるとき、危機的なのはむしろ若い世代です。異性と付き合った経験も恋人もいない若者が増えている。これは深刻です。確実に少子化が進み、人口がさらに減るわけですから。

 フランスの家族人類学者トッドが世界の家族を分析し、日本や韓国、ドイツは直系家族(権威主義家族)型、イングランドや仏北部は核家族型と分類しています。直系家族型は親が子に権威的で、子の1人と同居する。核家族型は成人した子は親元を離れ独立する。

 これを僕は、男女関係に広げて考えたんです。直系家族型の日本は、親に任せておけば結婚相手を決めてくれた。しかし核家族型は親が関知せず、自助努力で相手を見つける必要があった。だから自分で相手を見つけるための様々な仕組みや文化が生まれ、恋愛に向いた社会になったのだと。

 その最先端がイングランドでした。19世紀初めに、結婚前の男女が一緒にピクニックに行く姿を見て驚いた、と政治学者トクビルが書き留めています。

 やがて、この核家族型の価値観が米国に渡った。そしてハリウッド映画が隆盛期を迎えた1920年代以降、この恋愛結婚イデオロギーが銀幕を通じて世界中に拡散していったのです。ハリウッドが果たした役割はとても大きい。

 日本も戦後、米国に占領されてこの価値観を受け入れました。恋愛結婚至上主義の到来です。問題の根源はここにあります。直系家族型でありながら、形だけは核家族型を導入したことです。

 家族構造こそが社会の価値観を決める、というのがトッドの主張です。社会は一朝一夕には変わらない。かつて恋愛装置でもあった会社もその機能を失いました。装置が不十分なまま、日本は恋愛の自由競争社会に突入したのです。相手が見つからない人が増えたのは当然の結果です。日本や韓国、ドイツなど、少子化しているのは直系家族型の国々です。

 反対に核家族型の国々、たとえばフランスでは社会は何でも男女カップルが前提です。レストランでも独りでは入りにくい。日本には独りで入れる飲食店が山のようにありますが。男女の距離感も違います。触れあったりハグしたりは当たり前。これを日本でやったらセクハラになりますよ。しかも日本のように大事な思春期に男子校、女子校に通学していたら、異性と自然に会話する力も育たない。異性の気を引くことができるのはフレンドリーであること、つまり会話する能力だというのに。

 まずは、男女共学を義務化することだと思います。舞踏会のような出会いの場も必要です。サルサでも盆踊りでもいい。とにかく出会った男女が抱き合って楽しむ場を制度化する。昔の社内運動会で社員がカップルでゴールイン!なんてやっていたのも、ある意味この制度化だったわけですよ。

 いわゆる婚活には致命的な欠陥があります。目的が露骨すぎる。参加しようかなという段階で、すでに心理的なハードルが生まれます。舞踏会だったら「踊るのが楽しいから」って参加できる。人間には口実が必要なんです。

 最小努力で最大利益を得ようと行動するのが人間でもある。放っておいたら、恋愛なんて面倒臭いことはやめて漫画やゲームに没頭するオタクが増えていくでしょう。それが本人にとって幸せなら、誰も何も言えないわけではありますが。

 (聞き手・萩一晶)

     *

 かしましげる 49年生まれ。明治大学教授。専門は19世紀フランス。著書に「馬車が買いたい!」「職業別パリ風俗」「セックスレス亡国論」など。

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by kobo-tan | 2014-01-10 15:57 | ものがたり | Comments(0)
2014年 01月 10日

苦労した甲斐はあるもんです






年末に苦労してつくった大きなリビングボードがイマイさんたちの手で取付られました。


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ワイド4400mmの端から端まで木目のラインをつなげてやろうじゃないの、と頑張った成果はあったんとちゃいますやろか?
つながってるでしょ? 間あいてたり、段差あったりしてもなんとなく。

この突き板、柾っぽいところもわりと多かったのですが、そのぶん上品な印象です。
イマイさんも言ってるように、板目が主張しすぎず、うるさくないのはいい感じ。


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吊り戸棚の下の方の框扉は須籐君に頼んでつくってもらったやつ。
カワイイつまみが付いて、なかなかいいんじゃないでしょうか。

でもタモって、クリア塗装(この場合はオイル)して濡れ色がつくとなんか和風テイストが強くなります。
それがちょっとねー、という場合は、ほんのちょっと白を混ぜて艶消しにして、いかにも無塗装、って感じを装うとかっこよかったりしますねー。
タモ無垢は、無塗装がいちばんかっこいいんです。
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by kobo-tan | 2014-01-10 13:14 | 製作例 | Comments(0)
2014年 01月 08日

ほぼ日手帳




いま次の、またある程度込み入ったキッチン家具の図面見ながら、材料拾いと、合わせて作り方の検証と、
机に座ってやってるところで、いつも目の前にはパソコンがあり、頭が疲れてくるとすぐメールチェックしたり、
FBのチェックしたり、ま、ネットで金物なんかも調べるので重宝はしてるんだけども、やや脱線しがち。


一人でやってますのでね、まあ、白状しますと、「ほら、遊んでんじゃない!」って言う上司もいないので、
進むも休むもおのれ次第。ただその結果はすべて自分に帰ってくるというだけで。


今日も朝、FBのチェックしてたら、投稿記事の中にこんなの見つけてしまって、かなり心動きました。




ま、手帳は昔から誰でもが使ってたものではあるけど、ここまでくると、「ね、こんなのどう?」っていう提案であって、
このスマホ全盛の時代に糸井さんとこはこれを十数年前からつくってたというのだから、
しなやかな糸井流というのはなかなかにして流石だなと思ったりしましたね。


てなことをここでこんなふうに電脳上に書いてもですね、しょせんはこんなの電気のプラスとマイナスに支配されてるわけで、
2010年からこのブログ書いてますけど、こんなものは瞬時に消えてしまう、すべて打ち出して紙の上にでも残しておかなければね。


だから、どこかでそれを知りつつ一所懸命に書いてるっていうのも、ちょっとしたニヒリズムなのか、その逆なのか。
もし明日何かあってこれ全部消えちゃったとしても、あーあ、消えちゃったって思うだけですもんね。


だから手で紙に書くっていうのはちがう。
それは残そうと思わなくても残りますから。 自然に。
あえて処分したりしなければ、失くなったと思っていてもどこかから出てきたりする。
やっぱりこれが、ものとものとのコミュニケーションの王道じゃないか、なんて。


あんた手帳持ってないからなんでも忘れるのよ!なんていつも山の神に言われてるおれとしては、
ちょっと高いけども注文してみようかななんて思ったりしてます。
もちろんいろんなこといっぱい書けそうな「カズン」をね。
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by kobo-tan | 2014-01-08 18:22 | つぶやき | Comments(0)
2014年 01月 07日

あちらこちら命がけ



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新年最初の家具はまたもやこの「J の字手掛け」の扉3枚のついた収納。
この加工は、はっきり言って危険なのです。


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12mm幅の出丸カッターをなんと24mmも出して「J」の部分をえぐり取らなければならないのですから、
(もちろん角角のあらどりはします!)もうそれだけでも命がけ!くらいの気持ち。

突き通しなので吹っ飛ばされる危険は少ないものの、回る音だけでも「ブンブン」唸ってるカッター刃物を、
24mmも出して、しかも粗取りした、盤に接地する部分の幅6ミリしかないグラグラ安定しない扉を、
「J」の字を欠き取りながら、定規に沿わせてまっすぐに滑らせる、ということを考えただけでも…

「こわい」

この「こわさ」は、けっこう大切です。
これに慣れてきたきたころに事故は起きる。
仕事に慣れ、加工の危険度を軽視して大怪我をした同業者を何人も知っている。


自分の怖さをなだめ、加工の決心がつくまでの万全の対策を取ります。
この、角材の桟を、材がスーッと通る幅で盤上にきっちりクランプで留め、材の通る道をつくってやることもその一つ。


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突き通す側の「J」がバリバリにならないように扉巾の端材を「ハタガネ」でしっかり圧着することもその一つ。
もちろん「ハタガネ」は刃の反対の定規側に付けます。
もし刃の側に1本つけて、それが振動で緩んで、まかりまちがって刃の上にでも落っこってきたりなんかしたら…

ああ、考えるだけでもおそろしい!
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by kobo-tan | 2014-01-07 14:16 | つぶやき | Comments(0)