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つくりものがたり

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2013年 07月 31日

東京物語




東京物語_d0169209_9384924.jpg沈みゆく船、みたいなことを言うとたいていのひとは引いてしまうか、
暗いとか後ろ向きだとか言って批判されます。ということは、
それが僕らの社会の「社会意識」だということです。

そういうことはあまり考えたくない。いつも前向きでいたい。
目の前のことに集中して、がんばって、何かをつかめ。よけいなことは考えるな。
むしろそれがモラルだったりします。

なにしろ僕らは勤勉な民族ですから、その美徳は昔から今日までずうっと生きている。
そうやってやってきて、いま、僕らはかなり抜き差しならない問題に直面しています。
もう見て見ぬふりはできないところまできている。


僕らはこれまで何を得てきて、何を失くしてきたんだろう。というようなことをよく考えます。ぼくは後ろ向きな人間なので。
で、考えてもそう簡単にはそんなことわからないので、なにかを調べたくなったり、
本を買って読んだりする。それでまたいろんな疑問が出てきます。
答に意味があるというより、むしろ問いに意味があるのかもしれない。
一つだけ言えると思うことは、僕らはずうっと、がんばれば手に入るものに目がくらんで、
気付いてみたら、そう簡単に手放してはいけないものを、やすやすと手放してしまってきたんじゃないか。

これは強く思います。では、そう簡単に手放してはいけなかったものというのは何なのか。
それを考えることが、これから僕らがどうやっていけばいいのか、を考えるよすがになるんじゃないか。


下は、以前、Amazonで小津安二郎監督の映画「東京物語」を買って見たときに、なんかそんなようなことを考えて、
書いたレビューです。


久しぶりにこの映画を見てあらためて感じたことは、挨拶の映画だということ。
小津には「お早よう」という映画もあり、挨拶は彼の映画の特色でもあるのだが、この東京物語でも時候の挨拶から始まって、出迎え、見送り、暇を告げるなどの挨拶の言葉とそれを言う人物の表情とがじつに丹念に描かれている。

小津の映画では人々はただ挨拶を交わしあっているだけで、大事なことは何も話さないといって批判した、のちの松竹ヌーベルバーグの監督たちの言い分もわかるのだが、だからといって小津映画の会話の場面が退屈で空疎な時間かというとそんなことはまったくなくて、小津にはやはり、人は日々の生活の中で挨拶の言葉とともに出会い、別れ、歳をとってゆく、そういう存在なのだという確信があったのだと思う。

あいさつは、自己と他者のあわいの中でおたがいを認め合ったということであり、節度ある共生という小津が好む人間関係の距離感を表現するのにぴったりのものだった。そしてその際の声の調子や表情、気の入れ方を丁寧に描くことで、その人物の性格や、相手に対する感情、その時の気分などもごく自然に表現することができる。小津映画の魅力のひとつは、あえて声高には提示されないそれらのものを読み取ってゆくおもしろさである。

儀礼であり、型であるかもしれないが、多くのひとたちが、その型をまだ必要とし、共有していた時代。ひるがえって、今はどうだろうか。儀礼としての挨拶さえも失われつつある時代ではないだろうか。どんな局面で、どんな言葉を相手に発すればよいのか、私たちはその言葉も作法も知らず、すべてはわれわれの自由に委ねられている。それは幸福なことなのか否か。



そう。小津には確信があったのです。
それはとても大切なことに思えます。

by kobo-tan | 2013-07-31 10:34 | 社会


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