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つくりものがたり

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2014年 01月 31日

吉野弘さん その2



家具、そろそろアップしますが、もうひとつ吉野弘さんの詩を。
こういう散文詩が吉野さんの本領でもあるかなと思います。
facebookに掲載済みですが、こちらにも掲げておきたいと思います。



吉野弘さんの、「茶の花おぼえがき」という散文詩です。
吉野さんが茶どころである埼玉県狭山市に昭和47年に移り住んで、近くの茶畑で目にしたことから吉野さんの思索がはじまっています。
散文詩と構えずに、エッセイとして読んでもいい。
僕はこの詩の言葉全部が、いまの世の中の苦い暗喩となっているように思えます。ここに引用させていただきますが、読むには少し長いかもしれません。
余裕のある時に読んでいただけたらと思います。読み終えた後、必ず何かが残ります。



 <茶の花おぼえがき>

 井戸端園の若旦那が、或る日、私に話してくれました。「施肥が充分で栄養状態のいい茶の木には、花がほとんど咲きません。」

 花は言うまでもなく植物の繁殖器官、次の世代へ生命を受け継がせるための種子を作る器官です。その花を、植物が準備しなくなるのは、終わりのない生命を幻覚できるほどの、エネルギーの充足状態を内部に生じるからでしょうか。

 死を超えることのできない生命が、超えようとするいとなみ―それが繁殖ですが、そのいとなみを忘れさせるほどの生の充溢を、肥料が植物の内部に注ぎこむことは驚きです。幸か不幸かは、別にして。

 施肥を打ち切って放置すると、茶の木は再び花を咲かせるそうです。多分、永遠を夢見させてはくれないほどの、天与の栄養状態に戻るのでしょう。

 茶はもともと種子でふえる植物ですが、現在、茶園で栽培されている茶の木のほとんどは挿し木もしくは取り木という方法でふやされています。

 井戸端園の若旦那から、こんな話を聞くことなったのは、私が茶所・狭山に引っ越した翌年の春、彼岸ごろ、たまたま、取り木という苗木づくりの作業を、家の近くで見たのがきっかけです。

 取り木は、挿し木と、ほぼ同じ原理の繁殖法ですが、挿し木が、枝を親木から切り離して土に挿しこむところを、取り木の場合は、皮一枚つなげた状態で枝を折り、折り口を土に挿しこむのです。親木とは皮一枚でつながっていて、栄養を補給される通路が残されているわけでです。

 茶の木は、根もとからたくさんの枝に分かれて成長しますから、かもぼこ型に仕上げられた茶の木の畝を縦に切ったと仮定すれば、その断面図は、枝がまるで扇でもひろげたようにひろがり、縁が、密生した葉で覆われています。取り木はその枝の主要なものを、横に引き出し、中ほどをポキリと折って、折り口を土に挿し込み、地面に這った部分は、根もとへ引き戻されないよう、逆U字型の割竹で上から押さえ、固定します。土の中の枝の基部に根が生えた頃、親木とつながっている部分は切断され、一本の独立した苗木になる訳ですが、取り木作業をぼんやり見ている限りでは、尺余の高さで枝先の揃っている広い茶畑が、みるみる、地面に這いつくばってゆくという光景です。

 もともと、種子でふえる茶の木を、このような方法でふやすようになった理由は、種子には変種が生じることが多く、また、交配によって作った新種は、種子による繁殖を繰り返している過程で、元の品種のいずれか一方の性質に戻る傾向があるからです。

 これでは茶の品質を一定に保つ上に不都合がある。そこで試みられたのが、取り木、挿し木という繁殖法でした。この方法でふやされた苗木は、遺伝的に、親木の特性をそのまま受け継ぐことが判り、昭和初期以後、急速に普及し現在に至っているそうです。

 話を本筋に戻しますと―充分な肥料を施された茶の木が花を咲かせなくなるということは、茶園を経営する上で、何等の不都合もないどころか、かえって好都合なのです。新品種を作り出す場合のほか、種子は不要なのです。

 また、花は、植物の栄養を大量に消費するものだそうで、花を咲かせるにまかせておくと、それだけ、葉にまわる栄養が減るわけです。ここでも、花は、咲かないに越したことはないのです。

「随分、人間本位な木に作り変えられているわけです」若旦那は笑いながらそう言い、「茶畑では、茶の木がみんな栄養生長という状態に置かれている」と付け加えてくれました。

 外からの間断ない栄養攻め、その苦渋が、内部でいつのまにか安息とうたた寝に変わっているような、けだるい生長―そんな状態を私は、栄養成長という言葉に感じました。

 で、私は聞きました。

「花を咲かせて種子をつくる、そういう、普通の生長は、何と言うのですか?」

「成熟生長と言っています」

 成熟が死ぬことであったとは!

栄養成長と成熟生長という二つの言葉の不意打ちにあった私は、二つの成長を瞬時に体験してしまった一株の茶の木でもありました。それを私は、こんな風に思い出すことができます。

 ―過度な栄養が残りなく私の体の外に抜け落ち、重苦しい脂肪のマントを脱いだように私は身軽になり、快い空腹をおぼえる。脱ぎ捨てたものと入れ替わりに、長く忘れていた鋭い死の予感が、土の中の私の足先から、膕(ひかがみ)から、皮膚のくまぐまから、清水のようにしみこみ、刻々、満ちてくる。満ちるより早く、それは私の胸へ咽喉へ駆けのぼり、私の睫に、眉に、頭髪に、振り上げた手の指先に、、白い無数の花となってはじける。まるで、私自身の終わりを眺める快活な明るい末期の瞳のように―

 その後、かなりの日を置いて、同じ若旦那から聞いたこういう話がありました。

 ―長い間、肥料を吸収し続けた茶の木が老化して、もはや吸収力を失ってしまったとき、一斉に花を咲き揃えます。

 花とは何かを、これ以上鮮烈に語ることができるでしょうか。

(後略)


by kobo-tan | 2014-01-31 15:58 | ものがたり


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