人気ブログランキング | 話題のタグを見る

つくりものがたり

kobotan.exblog.jp
ブログトップ
2015年 02月 18日

ホーホストラーテンのスリッパ



FB友達である、イラストレーター・画家の深津千鶴さんから、いまアニメに取り組んでいて、起承転結の「転」のところばかり追加して、迷子になってしまい、軸になる物語が薄れてしまう、というようなコメントをもらったので、その返信として書いたものです。覚書として残しておきたいので、採録します。


いつも忘れたころにやってくる深津さんのメッセージもすごい!それ、最近ぼくが深津さんに見習おうとしてることなんです。というのは、FBの他の人の投稿を毎日すべて見てるとどうしても反応してしまう記事とかあるし、いろんな情報が頭の中を占めてしまうし、反応して言葉が湧いてくるとどうしても書きたくなってくるし、そしたらただでさえ金欠で次々に仕事こなさなくちゃならないオレなのにFBに時間取られてしまうので、これからは自分へのコメントかメッセージのある時だけ開いて、しばらく他の人の投稿見るのをやめようと、それを基本のFBとの付き合い方にしようと、深津さん流で行こうと思ったのでした。

失敬。前置きがくどいね。どうしても話しかけるように書いてしまうので…本題に入ろう。
「転」も「結」も加減が大事、ってのほんとにその通りですね。「転」を次々に追加していくと迷子になって、いちばん大切な物語が薄れてしまう、というのも一理ある。
でも、一観客の立場になって考えてみるとさ、要は面白ければいいんで、表現ていうのはどうも、主義主張をしだすほどつまらなくなってくる、と思うんです。作者の「思い」がこもってれば素晴らしいかというと、全然そんなことはないんで。何かを発見し、想像を膨らませるのは観客であって、観客にはその「自由」があり、作者の強すぎる思いはむしろその自由を邪魔する。だから作者は、観客にその材料をさし示す以上のことをしちゃいけない、と思うんだよね。「表現」って観客にとっての「窓」であればいい。「窓」から、広告とか宣伝とかスローガンばかり見えたら「窓」閉じたくなっちゃうじゃない?

ドラマとか映画とか表現とかの話は次々にいろんなこと頭に浮かんできりがなくて、それに深津さん、いつも謙虚で、出会った人からいろんなこと吸収しようとしてる人なのでいい気になってついついこうやって書いちゃうんですけど、ま、長い話はそのうちに深津さんの個展か何かにおじゃまできたときにお会いして話すことにして、(最近いろいろまたそっち方面のこと、仕事しつつ本読んだりしてけっこう考えてるんです)

で、最後にひとつだけ。
深津さん、ファン・ホーホストラーテンという画家知ってますか?フェルメールなんかと同時代のオランダの画家らしいんですけど、あ、ごめん、釈迦に説法でしたね。これ、ある本から教えてもらったことで、それ以来このところずーっと思ってることなんですけど、話が急に哲学的になるかもしれないけど、言わんとしてることはそういうことです。続けますね。
そのストラーテンに「スリッパ」という絵があります。どういう絵かというと、家の中のこちら側の室内から、開け放たれたドアの向こうに、廊下をはさんでまた開け放たれたドアがあって、向うにもう一つの部屋があって、その、部屋と部屋に挟まれた廊下に、無造作に脱ぎ棄てられたスリッパがある。ただそれだけの絵なんです。ぼくは知らなかったんで、ネットで検索して見ましたけど、向うの部屋に光が差し込んでたり、箒が立てかけてあったり、ま、要するにその時の情景を丁寧に描写してるだけなんだけど、ぼーっとこの絵を見てると、なんかいいんです。厭きないんですよね。人物も出てこなくて、風景画でもなく、「静物画」ですよね。

うーん、また長くなりそうなので、もしこの絵について興味覚えられたら、ぜひ前田英樹というひとの「倫理という力」とう本の最終章を読んでいただきたいと思います。講談社現代新書から出てる本です。
で、ぼくは途中をすっ飛ばしてなぜこの絵がいいかって言うところにいっちゃいますけど、この中に見える、スリッパも、箒も、椅子も、掛けてある絵も、人間の痕跡です。最初、住んでいる人の日常の、生活のざわめきとかが浮かんできますが、じーっと眺めてると、だんだんそういうのが遠のいていって、何かに入りこんでいくというのか、まわりの音やざわめきが聞こえなくなってきます。

喜びや悲しさや、楽しさや辛さや、要するに感動をエモーションとして表現は生まれるんだろうけども、そしてそれが他者に伝わるためには「切実さ」が必要だと山田太一さんはおっしゃっていますが、そういうものの向こう側に何があるかというと、つまるところそれは、「なぜ在るのか」「なぜ存在するのか」というただひとつの問いなのだと。ひとも、スリッパも、花も、風も、石ころも、雲も、なぜそこに、そういうふうにして在るのか、それだけはわからない。そのわからなさにまず打たれていない表現は、僕は結局つまらないんだと思う。打たれずに、小賢しく解釈してしまうことは、見る人に開かれた表現じゃない。ちょっと抽象的かもしれないですが、それを逃れた物語だけが、いい物語なんだと思うんです。そして、解釈しないぼくらにできることはたぶん、それらを愛することだけなんです。

ホーホストラーテンの絵についても、調べると、遠近法がどうとか透視図法だとか、いろんな「説明」がついてくるけども、そういうこと言ってると大切なものに気づかないまま、この絵を「わかった」ことにして終ってしまいます。この絵は「在るものを愛すること」についての絵なのです。それに気づいたとき、それは僕らに、ぼくらのものの見方に、僕らの生きるやり方に、何か静かに変革を迫ってくるような気がします。遠近法の説明はそんなことはないけども。

「在るものを愛すること」がずっと自分の中にあったので、脈絡なかったかもしれないけど、つなげて書きました。考えてみると、映画でも音楽でも、小説でも詩でも、ぼくの好きなものはみんな、紆余曲折のドラマや、起承転結の物語があっても、結局のところ、「存在する」ことに驚き、すべての「存在する」「在る」ものを愛している作品のような気がします。もっというと、それは信仰というものの発端でもあり、帰結でもあると思うんです。存在することに驚き、「在るもの」の中に神を見れば、イエスが言った「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神を愛せよ」という言葉が、素直に納得できるような気がする。宇宙の果てにいてこちらを見守っている、お爺さんみたいな神様じゃなく、この石ころが神だと、石ころを5分も見てれば思えてくるような気がするんです。

ごめんなさい。長くなりました。
これで終わりです。




ホーホストラーテンのスリッパ_d0169209_17265459.jpg


by kobo-tan | 2015-02-18 17:35 | ものがたり


<< 一葉の写真      告別 >>